瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介「尾生の信」(7)

 人と待合せて、すっぽかしたこともすっぽかされたこともあるが、それも昔の話で、最近は別にコロナでなくても、とんと人と待合せることなんてなかったのだけれども、もっと昔になると私も尾生ぐらいに義理堅かった。と云って、思い出すのは幼稚園に入る前(!)のことである。
 おかっぱ頭にされていた幼少の砌の私は、非常におとなしく聞き分けの良い、それこそ赤ん坊の頃から手の掛からない子供だったのである。
 生後半年から幼稚園に入る前年の夏まで住んでいた横浜のマンション(現存)でのことである。45年くらい前のことだから、会社員の妻である母は専業主婦、30代半ばだった。その記憶には兄が登場しないから、兄は幼稚園に行っていたのであろう。1学期だけ通っていた小学校の可能性もある。
 さて、その日私は、そのマンションの最上階(8階)の自宅で、確か、レゴでないブロック*1でおとなしく遊んでいたのである。と、母が買物に行くとて、私に「ここでおとなしく遊んでいてね」と言って出掛けて行ったのである。
 そして、私は、そのまま、同じ場所に座って、ブロックで遊んでいたのだが、急に尿意を催したのである。そして、困ったのである。
 母がいないと便所に入れないような歳ではなかったと思う。しかし「ここで」と言われて承知した以上、「ここ」にいないといけないと思ったのである。そこで、必死に尿意に耐えながら「ここ」から動かなかったのである。
 母はなかなか帰って来ない。私は泣きそうになりながらじっとしていた。
 ようやく母が帰って来たとき、私は泣き出して「おしっこ」だか言って尿意を訴えたのだが、そこが限界で、やっと便所に行こうと動くや否や、堪えきれずに廊下に漏らしてしまったのである。
 まぁとんだロマンチックでない尾生である。
 私には、漏らしてしまった記憶が母の言付けを守って「ここ」に居続けた、この未就学児時代の一件の他に、1度しかない。それは、私にとって唯一のおねしょ(寝小便)の記憶なのである。
 もちろん、寝ているうちのことだから、尾生の信みたいな話でも何でもないのだが、ついでだから(?)記憶を手繰って書いて置く。
 小学4年生だったと思う。後にも先にも1度きりなのだが、――当時、うちには自家用車があって、確か白いカローラだったと思うが、バッテリーが上がると云うので毎週末はドライブに出掛けていたのである。その後、いよいよ忙しくなって週末に運転する余裕もなくなり、私が中学に入る頃に、上記マンションの近所の人が、その頃、夫が盲目になってしまい必要に迫られて運転免許を取り、車をどうしようと言っているのを聞いて、その人に譲ったのである。さすがに今は廃車になったであろう。それはともかく、私が10歳の頃と云えば父もまだ40代前半だったし、そこまで忙しくなかったので毎週末、日曜に家族で出掛けることになっていて、小野の浄土寺とか、北條の五百羅漢、それから柳田國男の生家などに行った記憶がある。そして、何処かのレストランだかに入って、食事しようとしていたら、厨房からドラキュラが出て来たのである。黒い礼服を着て、黒いマントで、白い、蒼ざめた顔の、やはり白人みたいだったような、そいつが、牙を剥き出しにしてやって来る。きゃーってなもんで、逃げ惑っていると、なんと、父が同じような恰好をして、やっぱり白い、蒼ざめた顔で、牙を剥き出しにした吸血鬼になって、厨房から出て来た奴と戦い始めたのである。その間に母と兄と私はそこを逃れ出て、そして家に帰って、便所に入って、「あー怖かったぁ」と言いながら小用を足したのだか、勢いよく便器に小便が当たるとともに、私の下腹部が重く、温かく、そしてちょっと冷たくなって来たのである。
 そこではっと気付いて、寝小便をしていることが分かったのである。
 これが私の(記憶する)唯一の寝小便体験で、あんな妙な夢を見なければそんな体験もせずに済んだのだが、何かドラキュラの出て来るドラマや児童読物でも見たところだったのだろうか。まぁ夢だから、父がドラキュラになったのも妙だし、どうやって帰ったのか、とにかくすぐに家に戻れていたような按配だし、そして現場(?)の便所が、当時の自宅の便所ではないような按配だったようにも思うのだが、いづれ正確に記憶出来ている訳でもない。
 それからどうしたか、もちろん母に言って、宜しく後始末をしてもらったはずなのだが、平日だったのか休日だったのかも覚えていない。掛布団だったから夏ではなく、春か秋だったろう。しかし変な夢のことだけは、寝小便という連れがあったせいか、今でも覚えているのである。(以下続稿)

*1:レゴブロックもあったけれども小さくて角張っていて、余り好きではなかった。