瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(25)

 昨日の続き。
・遠田勝『〈転生〉する物語』(05)「一」3節め②
 「一 白馬岳の雪女伝説」の3節め「捏造された「雪女」伝説」の、前回の引用に続く3段落めを見て置こう。22頁16行め~23頁6行め、

 しかし、この調査の目的は、そんな小さな悪戯の告発ではない。この「雪女」の口碑伝説化のプ/【22】ロセスをたどる交渉の結果、明らかになるのは、伝説・昔話の伝承における、「文字」の力の圧倒/的な強さと支配力である。そしてそれとは逆に、浮き彫りにされるのが、「口承」文化や文芸に対/する、わたしたちのあまりにも甘い期待とロマンティシズムであり、これについて、わたしはかな/り批判的な言葉を使わざるをえなかった。ただし、それにもかかわらず、物語を伝える最上の力は、/やはり、生身の体をもった、語り手と聞き手の関係、すなわち、肉声と感情による「口承」にある。/それもまた、この論考で明らかになる事実の、大切な一面である。


 「ただし」以下のことはしばらく措く。そこまでのところについて、8月14日付(18)にて「はじめに」の類似の記述への牧野陽子の批判を見て置いたが、やはりこんなことを事新しく指摘していることに驚かされる。
 松谷みよ子や、その系統の人々がこう云った問題に無頓着に見えることは確かで、私も常光徹学校の怪談』の生徒たちへの強い影響力を(そもそも『学校の怪談』が出始めたときから、こんな本を民俗学者が当事者の群れに投げ込んで良いのか、疑問を抱いていたのだけれども)2011年5月9日付「岩本由輝『もう一つの遠野物語』(6)」の後半に紹介した通り教育実習時に強烈に体験している。常光氏の『学校の怪談』への批判としては、差当り2013年4月12日付「常光徹『学校の怪談』(003)」に引いた小池壮彦の発言を挙げて置こう*1。現在、事態はさらに進んで朝里樹『日本現代怪異事典』を始めとする一連の著作・関連本のような「全部鵜呑みにしてデータとして扱うみたいな」ものが幅を利かすようになってしまった*2。いや、朝里氏がいけないと云うのではない。いけないのはむしろ、常光氏のような民俗学者でありながら児童文学作者を兼ねている人々の方である。
 それはともかくとして、――それにしても疑問なのは、遠田氏が松谷みよ子の民話を取り上げながら、本職の民俗学者の意見を徴しようとしていないことである。前回見たように、牧野氏の旧稿に、こういった問題について発言している、今野圓輔と関敬吾の名が挙がっていたではないか。同じ東京大学比較文学出身で(余り交流はなかったかも知れないが)年齢の近い杉田英明(1956.1.7生)が、やはり外国(語)の昔話が翻訳・翻案を通じて日本に移入された例である昔話「味噌買橋」について、既に2002年に『葡萄樹の見える回廊――中東・地中海文化と東西交渉』に纏めているではないか。

 と云って、私はまだ杉田氏の本は見ていなくて、牧野氏の新稿に挙がっていたのでこれから確認しようと思っているのだけれども、7月31日付(04)に挙げた遠田氏の本書以降の論文についても、どうも、同様の不安を感ぜざるを得ないのである。(以下続稿)

*1:当ブログで、常光氏の手法を詳細に検討するつもりだったので「常光徹学校の怪談』」は初めから3桁の記事数になる予定で始めたのだけれども、2桁に達しないまま滞っている。

*2:朝里樹『日本現代怪異事典』については、折々取り上げて批判して来たが、手短には2019年11月22日付「子不語怪力亂神(3)」を参照。