瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(174)

 記事のタイトルは「白馬岳の雪女(37)」或いは「上田満男『わたしの北海道』(4)」でも良かったのだが、私の青木純二調査のそもそものきっかけは「木曾の旅人」の改作者としての興味からだったのでこの題にして置こう。
・上田満男『わたしの北海道』更科源蔵<注7>
 さて、昨日の9月2日付「上田満男『わたしの北海道』(3)」に、『わたしの北海道』の「更科 源蔵」の章のインタビュー本文の内容と、注に登場した証言者について見て置いた。
 今回は4節め、126頁1行め~127頁13行め「消えた記録■」の126頁15行めに附された(注7)について、本文と合わせて見て置こう。
 すなわち、インタビュー本文には、126頁15行め~127頁5行め、

 伝説? マリモの? いや、あれは大正十二年ごろ、釧路か函館にいた青木純二(注 7)という新/聞記者が、大正末期にアイヌの伝説についての本を出したんですが、それ以前にそんな話はありま/せん。ユーカラだって、そんな日本的な情緒ものや恋愛ものなんてないですよ。アイヌはマリモ/【126】をきらっていましたからね。「湖の妖精」といって、それがふえると魚が減るとか、ね。
 伝説にあるのはベカンベ(ひし)がね、沼の神様に おいてくれるように頼んだら、「お前が来る/と人間が集まって汚くなる」。それで腹立ちまぎれに湖畔の草をむしって湖水に投げ込んで行った。/それが波の間に揺れているうちにマリモになった、そんな話はありますが、これじゃ恋物語になり/ませんね。

とあり、その注を見るに、129頁11~15行め、

<注7> 青木純二さんの話 大正十二年ごろ、函館日日新聞の記者をしていて、一年ほどアイヌの/伝説について連載しました。それを大正十三年七月に札幌・富貴堂書房から「アイヌの伝説と情/話」、さらに大正十五年に東京の出版社から「アイヌの伝説」を出しました。旭川・近文のアイヌ/古老から話を聞いたり、函館の図書館にあった古文書などを調べてまとめたものです。確かにアイ/ヌの伝説に恋物語は少ないですね。でも全くないということはありません。

と、更科氏に批判された青木氏本人(!)が登場するのである*1
 しかし、マリモ伝説について答えていない。誤魔化したのか、それとも上田氏が気を遣って、直接責めるような聞き方をしなかったために、このようなぼんやりとした答えになったのであろうか。
 青木氏は恋マリモ伝説を自分が捏造したことになっていることを知っていたのだろうか。――9月1日付「白馬岳の雪女(36)」に見たが、遠田勝が初めて指摘し、若菜勇が詳細を明らかにしたように、恋マリモ伝説の原典は永田耕作「阿寒颪に悲しき蘆笛」である。ここでそれは私じゃないと否定することも出来たはずなのだが、何ともしていない。何しろ50年以上前のことで記憶も曖昧になっており、他の、自分が『アイヌの傳説と其情話』で多々捏造した伝説と一緒くたになって、否定することが出来なかったのであろうか。
 ところで、青木氏が「函館日日新聞」の記者だったのは、2019年10月27日付(141)に見たように大正6年(1917)から、大正8年(1919)11月に「高田新聞」に入社するまでの間である。従って記者時代に連載した訳ではない。大正12年(1923)には新潟県高田市在住のまま「東京朝日新聞」に移っている。
 さて、当時の函館には明治期に石川啄木が勤めたこともある「函館日日新聞」が改題した「函館新聞」と、別に大正7年(1918)4月創刊の「函館日日新聞」があったので非常にややこしい。しかもこれらは現在刊行されている「函館新聞」とは関係ないらしい。
 大正期の「函館日日新聞」も「函館新聞」も函館市中央図書館にて閲覧可能である。何事もなく、そして私が金持ちで暇を持て余していたら函館に泊まり込んで連載記事、さらには青木氏が在籍時に同じような記事を他に書いていないか、創刊以来の紙面を点検するところなのだけれども、まぁ気長にそんなことがあればと期待して待つこととしよう。もし函館或いは北海道在住で確認しようと云う人がいれば、是非やって下さい。当ブログの教示に拠ることを一言断ってもらえれば一向に構いません。もちろん危険がなくなれば、1週間泊り込みで函館市中央図書館に通って朝から晩まで昼飯抜きで粘るのだけれども、現状ではわざわざ出掛けてもそんな長居をさせてくれないだろう。函館大谷か函館大妻か函館白百合学園の非常勤講師でもやっていれば仕事帰りに少しずつ、見て行くのだけれども。
 それから『アイヌの傳説と其情話』の書名が間違っており、改題本の『アイヌの傳説』と別内容であるかのように語っているように読めなくもないが、これは上田氏が現物で確認しないまま、青木氏の発言内容を縮めたせいかも知れない。わざわざこのために会ったとも思えないから電話取材だと思われる。だとすれば聞き違いの可能性も考えられよう。
 ところで、このマリモの話題は上田氏の方から更科氏に振っている。北海道の伝説について聞くのであれば、その代表格(?)であるマリモについて、恋マリモ伝説否定派の更科氏から是非とも一言もらいたいと思って、更科氏が触れずに済ませようとしたのをわざわざ持ち出したようである。或いは、青木氏が存命であることが分かったので、更科氏の発言に答えてもらう形で青木氏の言い分を取り上げようと、わざと振ったのかも知れない。青木氏は2020年10月15日付(169)に見たように、昭和21年(1946)に朝日新聞社から神奈川新聞社に移籍しており、それから30年経っているが、当時の朝日新聞社は連絡先を把握していたのである。
 それはともかく、青木氏は「わたしの北海道」取材当時、満80歳か81歳、『わたしの北海道』に故人であることを断っていないことから校了時、昭和52年(1977)7月に生存していたとして、満82歳である。この僅か5行の証言も貴重なのだけれども、上田氏はこれ以外に何か聞いていないであろうか。知りたいものだけれども今更詮無いことか。
 青木氏のその後の消息はまだ明らかにしていない。ここでは念のため、青木氏の著作権がまだ切れていないことを、注意して置きたい。(以下続稿)

*1:8月27日付「白馬岳の雪女(31)」に、HN「TOKIO1879」の、青木純二『アイヌの傳説と其情話』が知里幸恵アイヌ神謠集』から6話、改題して採っている(とまでは書いていないが、要するに同じである)との指摘を取り上げたが、この青木氏の証言が正しければ、青木氏は近文で『アイヌ神謠集』と同じ内容を(恐らく同じ人から)同じ順序で聞いたことになる。多分そんなことはあるまいと思うのだけれども、否定し去るためには「函館日日新聞」掲載が『アイヌ神謠集』より後か前かを確認する必要があろう。