瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(075)

 昨日の続き。
・遠田勝『〈転生〉する物語』(34)「四」
 「四 ハーンの「雪女」を読む」の4節め、「母性の神話と父性の神話」の冒頭、前節の最後で、96頁5~6行め「お雪」が「十人という、/とほうもない数の子供を誕生させた」設定について、4行め「ハーンの雪女は、きわめて凶暴な、越境する母性神なのである」と論じていたことを承けて、96頁8~16行め、

 この十人という子供の数は、これまで見てきた日本の雪女伝説の語り手のほとんどが、そのまま/引き継ぐことを拒んだ数で、それが、大正から昭和初期の日本の家庭では、ありえない数ではなか/ったのにもかかわらず、たいていは、三人から五人という穏当な数に切り詰めてしまっている。一/般的にハーンは、日本の物語の再話において、原話の荒唐無稽なディテイルを、よりリアリスティ/ックに書き改めるのだが、この場合は、逆に、ハーンの物語を再話する日本の語り手たちが、原話/の細部を荒唐無稽とみなして、よりリアリスティックに書き改めているのだ。十人という子供の数/は、ハーンにとっては、雪女の母性を神話的に語るために不可欠なディテイルだったが、日本の語/り手たちは、雪女の母性をそこまで神話的に造形する必要を認めなかったのである。彼らにとって/雪女は、所詮、正体を見破られ、涙ながらに子別れする「信田妻」の変形にすぎなかった。

とし、続いて97頁1~6行めに「「雪女」における「母性」の優遇と神話化」を、7~13行めに「「父性」の抑圧ないし不在」を論じて、14行め~98頁6行め、

 この父親の不在もまた、日本の語り手たちが、ほとんど無意識のうちに修整してしまった点で、/白馬岳の雪女伝説は、冒頭いきなり、茂作を箕吉の父とすることで、この不在を解消している。民/話「雪女」の決定版というべき、松谷みよ子の再話が、徹底的に茂作・箕吉の父子関係に焦点をあ/てていることは、すでに指摘したとおりである。茂作が箕吉の父とされ、箕吉の目の前で命を奪わ/【97】れることで、白馬岳の雪女伝説は、この物語の主題が、家長の代替わりであることを告げている。/箕吉の母は、この伝承の系統の早い段階で言及されなくなり、松谷版では、はじめから父と子の二/人暮らしという設定になり、ハーンとは逆に、母親の不在の理由さえ語られていない。松谷の「雪/女」は、父子家庭にはじまり、父子家庭におわる、父子関係の循環相続の物語となっている。次節/でくわしく扱う越後の有名な「銀山平*1の雪女」でも、母親は完全に消去され、ハーンの母への特別/な思いは、完全に父親に置き換えられて、これ見よがしの父への孝行物語に書き換えられている。/‥‥

と白馬岳の雪女伝説の主題に触れる。
 こう云った辺りの、主人公箕吉(巳之吉)と父と母との関係については、10月2日付(061)に引いた橘正典『雪女の悲しみ』にも先行研究の意見として触れてあった。まだ私はこの辺りの文献を辿る余裕のないままである。
 それから、少々どうでも良いことながら、10月14日付(067)に「次節」なのか次章なのか分からない、と突っ込んだのはここの記述である。
 それはともかく、ここで少々違和感を覚えるのは「これまで見てきた日本の雪女伝説の語り手のほとんど」或いは「日本の語り手たち」とあることである。――遠田氏が「これまで見てきた」雪女伝説については、10月14日付(067)に引いたように「フィールドで採話されたものはひとつもなく、文献だけで一直線につながってしまった」ことを「調べたわたし自身が、呆然としている」などと云う感慨と共に報告していたではないか。全ては子供の数を「五人」にした青木純二『山の傳説』に淵源するのだから「ほとんどが、そのまま引き継ぐことを拒んだ」などと、青木氏の改変を「そのまま引き継」いだ人たちまで意志を持って「拒んだ」頭数に加えているらしいのは、どうも奇妙である。
 しかしながらこれは続きを読んで行くと「五 遠野への道」の2節め「非白馬岳系の伝承」にて取り上げている、青木氏とは別系統らしい「雪女伝説の語り手」たちを含めているのだと云うことが分かってくる。――やはり、どうも、落ち着かない。ひょっとすると、当初は「非白馬岳系の伝承」の紹介を全て済ませてからこの辺りを書いていた、だから「これまで見てきた」と書いたのではないか。すなわち「遠野への道」の章が先で「ハーンの「雪女」を読む」の章が結論だった。それを最終的に入れ替え、それに合わせて文章に細かく手を入れたのだが、うっかり直し忘れたのかも知れない。違うかも知れないが。(以下続稿)

*1:ルビ「ぎんざんだいら」。