瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島悦次『傳説の誕生』(1)

 遠田氏の意見には承服し兼ねる点が多々あるものの、信越にハーン張りの「雪女」が定着し、多摩には定着しなかったのは事実である。当時の気候からして多摩でも「雪女」に語られていた状況があり得た、とする主張も間々目にするが、雪の殆ど積もらない地域に雪女が棲息(?)していたと云われても現実味、いや、架空味(?)を感じないのである。
 しかし、実は青木純二と同じ頃に、多摩に「雪女」を定着させようとする(かのような)動きがあったのである*1。今回から少々、その辺りの文献を漁って見たい。――まぁ結局、何ともならなかったのだけれども。
・中島悦次『傳説の誕生』昭和十三年七月一日印刷・昭和十三年七月十日發行・定價 金貳圓五拾錢・人文書院・四+三四一頁
 中島悦次(1899~1983)の著作権は切れていないが、かつて近代デジタルライブラリー時代の柳田國男の著作がそうであったように、遺族の許諾により国立国会図書館デジタルコレクションの「インターネット公開」になっている。但し国立国会図書館蔵本には巻頭に、修理製本に出したときに生じたらしき錯簡がある。
 頁付なし1頁の「はしがき」に拠れば、1行め「時々のラヂオ講演放送後に、聽取者から」内容について問合せがあるが、2~3行め「近頃新聞のラヂオ版も、(都新聞のそれ以外/は)あまり趣味講演の類には力を入れてゐないやうである」ので、8~9行め「今まで愛宕山から話された草稿の中から/十五篇、實際放送されたのよりは幾分詳しいものを一般向きの讀み物として一冊に纏めて見た」とあり、三二三~三三〇頁「あ と が き」の最後近くに、その細目が示されている。それについては次回触れることにして、ここでは「あとがき」の初めの方、中々興味深い、自らの家族や、祖母に聞かされた昔話について語った箇所について見て置くこととする。
 祖父・森霞巖(1842~1908.7.12)父・森廣陵(1874.12~1921.1)ともに画家で、明治36年(1903)6月頃*2に祖父母を残して群馬県前橋市榎町三十四番地から上京するまで祖母てる(1850~1935.12.2)に昔話を聞いて育っている。「亡父の継母」で血は繋がっていない。かつ「先に竹腰家に嫁して生んだ娘」ともあるから中島氏の祖父とは再婚である。父の異父姉は岩野泡鳴(1873.1.20~1920.5.9)の最初の妻(1895~1912)であった幸(1870~1936.11.5)である。母は光(てる。通称は千代。1874~1929.11.5)、しかし何故、「中島」悦次なのかが分からない。
 明治39年(1906)3月に祖父母も上京して同居するが、やがて中島氏が小学校に入学して間もなく祖母は岩野幸の次男(三男)眞雄のお産の手伝い旁々去ったため、中島氏が祖母から昔話を聞いた時期はまづ前橋での幼少期のことであった。三二三頁7行め~三二四頁1行め*3

‥‥、桃太郎・舌切雀・文福茶釜の類からはじめて、いたづら河童が便所でお尻を撫でゝ武士|の妻に懷劔で腕を切り取られた話、みそ豆の盗み食ひしそこなつた山寺のお小僧の「和尚さんおかはり」の|話、「ふみ書く(踏み缺く)爲めの硯箱ふみかいたとてとがはあるまじ」と詠んで失策をほめられたかし|こい娘の話、「言ふな語るな沙汰するな、しつぺい太郎はこはいぞ/\」の大猿退治の話、「これ嫁女、罐子のそば*4|に居りながらぶうといはずに汲んで飲みなよ」と姑にいはれたお嫁さんの話、「チン/\カラ/\ブイ/\/\|黄金の盃スイ/\/\」と放屁する花嫁さんの話等々の類まで何度となく聞かされ、「昔々或る所にお爺さんと|お婆さんがあつたとさ」から「それで市が榮えたとさ」まで語り終へるのを待ちかまへて、またせがんでは同じ|【三二三】話を飽きる迄くりかへして話して貰つたものである。それは五歳の六月頃までの私で、‥‥


 祖母から聞いた話については、三二四頁14行め~三二五頁2行めにも、

‥‥。私が下谷小學校に入つて二年生の時、生れて|【三二四】はじめて教壇に立つてお話をしたのは祖母から聞かされた「盆皿や皿丁山に雪降りて雪を根として育つ松かな|」「盆の上に皿のつけて皿の上に松おつ立つた」の紅皿缺皿の話であつた。その歌を受持の渡邊先生が手帳に書|きつけて居られたのを今思ひ出すとゆかしく又懷しく思はれる。‥‥

と、結末が「皿々山」になっている継子譚「紅皿欠皿」について述べている。前者が賢く美しい継子紅皿の歌、後者が愚かで醜い継母の実子欠皿の歌である。
 ただ、三二五頁14行め~三二六頁1行め、

‥‥。祖母が私が十五歳の九月十二日に岩野家/【三二五】から戻つて以後、幼妹に話して聞かせる昔話を私はやはり耳を〓てて聞いた。*5

とあるから、大正2年(1913)9月以後にも記憶を補強する機会があった。
 とにかく断片的な記述だし、中島氏の祖母の出身地が何処なのか、と云う問題があるが、明治30年代の半ば頃の群馬県前橋市で、このような昔話が行われていたことは確かである。その意味で貴重な記録だと思うのだけれども、群馬県の昔話研究に、この記述は活用されているであろうか。――今後気を付けて置くこととしよう。
 なお、上京当初は下谷区谷中坂町三十五番地、小学校に入学する頃には下谷区車坂町百十一番地に住んでいた。明治42年(1909)の年末には下谷区稲荷町四十六番地に居住、そして大正2年(1913)11月3日夜半過ぎには池之端七軒町二十八番地で類焼の厄に遭っている。(以下続稿)

*1:ハーン「雪女」の原話がほぼハーンの再話通りだったとすれば「定着」ではなく「復活」させようとした、と云うことになるのだけれども。

*2:父親の生歿年は三二四頁1~2行め「その頃まだ三十歳の父/(森廣陵、大正十一・十二・歿、年四十八)」とあるが、歿年月日の日が欠けていることから察せられるように、年及び月にも間違いがあるようである。ここでは11月3日付(2)に引いた『現今名家書畫鑑』の生年月に従った。そうすると上京時期を三二四頁1行め、中島氏が「五歳の六月頃」とするのにも合う。但しこの辺りの確定にはもう少々文献の渉猟が必要である。【11月5日追記】森広陵の歿年を「1921」としていたが、11月5日付(4)に引いた中島悦次「卒論の遠い思い出」(「国文学科報」3~4頁下段2行め、昭和48年3月・跡見学園女子大学国文学科)により月を補った。

*3:くの字点を「/\」で示したので改行位置を「|」で示した。

*4:ルビ「よめぢよ くわんす」。

*5:仮に「〓」にした文字は潰れていて全く読めない。