瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(327)

五木寛之の赤マント(15)
 昨日の続き。
 それでは、①上製本『日本の民話 12 現代の民話の「私の民話論 生きている民話」=②文庫版日本の民話⑫ 現代の民話』の「私の民話論/――生きている民話――」から、当該箇所を抜いて置こう。①249頁3~20行め(改行位置「/」)②283頁8行め~284頁(改行位置「|」)、

 こうして考えてきますと、私達の時代の民話というものは、みんな戦争にかかわりのあ/るもの|ばっかりでね、水雷艇の中に閉じ込められて、遺書を書いて死んでいった「水雷艇/長」とか「軍|曹物語」とか、ほとんど戦争に結びついたものばかりが、われわれ国民の伝/承として残っていま|すね。
 それでも、そういうものの中に、「赤マント、黒マント」なんていうこわい話があって/ね、な|んだかわからないけれども、赤マントや黒マントをひるがえした怪物が、突然便所/なんかから現|われてくるような気がしてこわくてしかたなかったわけですね。
 赤マント、黒マントはアナーキズムボルシェヴィキのことだったと思うのですよ。そ/れをあ|あいう形でいったんですね。たとえば、「あいつはアカだ」とか、「大杉栄*1はクロだ/から殺した」|とか、「アカは殺してもいいんだ」とかいうこと、あるいは、伝染病の患者/を指して、「あいつの|【283】息子はアカだそうだ」という話を、親たちが、ヒソヒソとする。そ/うすると、〝アカ〟〝クロ〟は、|なんだかこわいものだ、という気持ちがぼくらの頭の中に/あって、それで、どこからか「赤マン|ト、黒マント」という物語がひょっとしたら生まれ/て来たのかもしれない。
 だから、「赤マント、黒マント」というのは、軍国主義や日本のファシズムの中では、/タブー|の、二つのシンボルだったのです。だから、片一方では空の英雄物語などに興奮し/ながら、一方|では、戦時下において、アカとクロはタブーだぞ、ということを、ああいう/ミステリヤスな形で|ヒソヒソと囁*2かれたと思うのですね。【249】


 遺書を書いて死んだのは佐久間勉(1879.9.13~1910.4.15)で、第六潜水艇の艇長であった。潜水艇水雷艇の一部として取り扱われた時期もあったようだが、普通の水雷艇は潜水しない。
 それはともかく、後年の『七人の作家たち』所収インタビューでは「赤マント青マント」と言っていたのが、ここでは「赤マント、黒マント」としている。
 それから『七人の作家たち』では「あちこちに現れる」ことになっていたが、ここでは「突然便所なんかから」と云うことになっている。いや「ような気がして」だから、飽くまでも曖昧な記憶と云うか、怪物が出そうな場所と云うことで、実際には特に便所と強調されていなかったのかも知れないが。
 しかし、いづれにしても小学生の頃の「なんだかわからない」ものの記憶で、余り具体的ではない。それを、五木氏は「アナーキズムボルシェヴィキ」と解釈するのである。
 赤マントに関するこうした見方は東京での流言流行当時からのもので、2013年11月21日付(031)に引いた大宅壮一「「赤マント」社會學」に既に見えている。
 黒マントについては2020年5月2日付(242)の初めに、同時期に東京市に出没した黒マントについて簡単に纏めて置いた。しかしながらここで大杉栄(1885.1.17~1923.9.16)は「クロ」だ、と云うのは anarchist のことで、小沢信男が「わたしの赤マント」を改稿した際に、2014年1月19日付(089)に検討した箇所だけれども、持ち出していた黒色ギャング事件の方を想起すべきだろう。黒色ギャング事件については2014年1月22日付(092)以上の調べをしていない。
 しかしながら「赤マント、黒マント」と並び称することは殆どなく、赤マント単独か、あっても「赤マント青マント」なのである。特に朝鮮半島では、2014年1月7日付(077)及び2014年1月4日付(074)に引いた中村希明や、2020年11月5日付(298)に引いた、北杜夫が昭和37年(1962)1月に西サモアで会ったドクター・ハンの夫人ともに、日本統治時代の朝鮮の学校で、便所に出没する赤マント青マントについて語っているから、インタビューに際して自然に口を衝いて出た『七人の作家たち』の「赤マント青マント」の方がより正確で、「赤マント、黒マント」は当時小学1年生だった五木氏の曖昧な記憶が、解釈に引き摺られて捻じ曲がってしまったのではないか、と思えるのである。(以下続稿)

*1:ルビ②「おおすぎさかえ」。

*2:ルビ②「ささや」。