瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(187)

・叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』(10)松尾芭蕉の手紙」②
 昨日の続き。
 50頁上段1~13行めは前置きで、以下、章分けは番号ではなく2行取りで中央にやや大きく「」を打っている。以下、仮に【番号】を振りながらその位置を示し、それぞれの章の設定や気付いた点などをメモして置こう。
【1】50頁上段14行め
 昭和35年(1960)春、「さる中央紙の東北総局」の「次長をしておりました小野信詮君」が語り手である「多少古俳諧の知識のある無名俳人」の「私」の許に「芭蕉の真筆と思われる書簡」の「写し」を持ち込んで「鑑定」を依頼するところから始まる。語り手は「アパート」暮しの独身で「大学」の講師ででもあったらしい。書簡の所有者は「斎藤耕太郎先生」で「ここの大学の名誉教授」で「専門は古代史」、「小野君」はその「教え子の一人」である。51頁下段から52頁上段2行めまで、その全文が紹介されている。ルビが現代仮名遣いになっているのが私には落ち着かない。51頁下段13行め「申訳」にルビ「もしわけ」とあるのは誤りだろう。――以後、その解釈が章末まで述べられる。中々尤もらしい。54頁下段12~13行め「芭蕉奥の細道の旅と云うものは、現代/の小役人達の出張旅行とはわけが違う。」とは、当ブログでは2012年9月7日付「松本清張『聞かなかった場所』(1)」に取り上げた、松本清張がよく取り上げた(ような印象のある)温泉地での性的接待を伴う出張旅行を指している。
【2】55頁下段3行め
 「五月」に小野君から「自分の支局の主催で、東北六県の県庁所在地を巡回」する「文芸講演会」を開催するが「その講師の中に、俳文学者の一流人である鶴岡卓二博士を入れた」ので、斎藤博士の自宅で「新発見の芭蕉書簡を鑑てもらおう」ということで「同席」を求められる。斎藤博士は「古代史」が専門ながら「俳癖のある」「相当な風流人」で「自宅」を「無縫庵」と名付けており、「床の間には、小堀遠州の消息幅」、「楣間*1には幕末長崎の砲術家高嶋秋帆の、「遊山翫水」の四字額が掲げてあ」る。――前者の表装について、56頁上段12行め「実に何とも小僧らしいような仕立て方、」とあるのだが「小僧らしい」は「小憎らしい」だろう。
【3】57頁下段3行め
 「それから二ケ月とは経たない、七月一日に斎藤耕太郎博士が急死」する。「原因は心筋梗塞と云うこと」で、子のいない、親戚もいないも同じなので「平生懇意な仲の教え子」の小野君が「未亡人と相談の上、万事葬儀をとりしき」る。
【4】58頁上段13行め
 58頁上段14~15行め「いつの間にか十一月に入り、その四日は日曜日で/したが、」とあるが昭和35年11月4日は金曜日である。「六日」と訂正するべきだろう。小野君から電話があって、斎藤博士の未亡人が自殺したと知らされる。10月末に「うちの支社で主催」して「市の公民館のホール」で開催した「今年で六回目になる」「市内勤労者写真展」の「三席に入賞した」「市立病院の薬剤師で、山崎光太郎と云う人の作品」に、急死する直前の斎藤博士と、未亡人との「只事でない争いの場面」が写っているのを見、この〈争い〉が斎藤博士の「衝撃*2死」の原因だろうと思いながら、うっかり写真のことを未亡人に伝えてしまった。そのために未亡人が自殺したのだと考えている小野君は「遺書を急いで見る気になれな」いと言って、翌日の葬儀の後になって初めて小野君宛の未亡人の遺書を、語り手の「私」立ち合いの下で読み始める。62頁下段13行め~66頁下段2行めに「遺書の全文」の「写し」が引用されている。遺書には「私達の思いも寄らない大変なことが書き列ねてあ」る。66頁上段18行め「十一月一日午後九時認む」とあるので夫の死の丁度4ヶ月後に自殺したことになる。天涯孤独なので3日後に漸く近所の人が不審に思って縊死体を発見したのである。
 遺書はかなり異様な内容で、それで名誉教授なのに大学関係者ではなく新聞社勤めの教え子が葬儀を取り仕切ることになったのか、と思わせられる。
【5】66頁下段7行め
 66頁下段8行め、冒頭の段落「 十二月に入った或る夜」とばかりあって句点が打たれていない。――小野君が未亡人の遺書に名前の出た「山崎千代子」に会ったこと、それからしばらく後らしいが、結婚した「小野君の部下」が「新婚旅行のハワイの土産を持って、小野君の家を訪ねて」来たとき、山崎千代子と「銀行の同僚」だったと云う花嫁に、「日本に厭気がさしたらしい」山崎千代子が「出国の数日前」に、自らの犯罪を打ち明けていたことを聞かされたことを*3、伝えられる。すなわち「市内勤労者写真展」の写真に写っていた女性の後ろ姿は、未亡人ではなく山崎千代子ではないか、と思い当たるのだが、未亡人は「冥府へ」山崎千代子は「国外へ去って」行ったために真相は藪の中、と云うことになる。
 疑問なのは海外旅行自由化は昭和39年(1964)4月1日以降で、それまでは単なる観光旅行は認められておらず、当ブログで取り上げたところでは昭和25年(1950)から昭和28年(1953)の遠藤周作のフランス留学、昭和36年(1961)から昭和37年(1962)の北杜夫の『南太平洋ひるね旅』取材旅行、北氏が現地で出会った「H嬢」畑中幸子「T氏」寺門之隆「I氏」岩佐嘉親の調査旅行など、目的のあるものに限られ、色々と制約も多かった。
【6】69頁上段7行め
 冒頭「やがて年も改まり、その二月の末のこと、そろそろ梅も綻びかけた、ある日曜日に」とある。【4】章で見た通りの暦とすると2月28日と云うことになるが、昭和36年(1961)とすると2月26日のはずである。小野君から「斎藤博士夫妻の戒名をつけ」た礼に、問題の「芭蕉の手紙」を贈られる。「余りにもボロボロなので、私は五千円ばかり奮発し、表具をし直しに出」す。「二ケ月ほどし」て出来上がる。4月末から5月初めという見当になろうか。そこで「表具屋の爺さん」に「古い表具」の「胡麻竹の軸の中に、小さな紙片*4」があったと言って渡される。
【7】70頁段上3行め
 これが最終章で「紙片」についての解説、70頁下段2行めまで。
 70頁上段9行め「寛政七年(一七九四)十/二月二十三日」とあるが寛政七年は西暦1795年、厳密に云うと年末は1796年になっている。しかし私は2010年12月31日付「年齢と数字」に述べたような理由で、幾ら正確だとしても1796年とはしない方が良いと思っている。(以下続稿)
12月22日追記】かなり急いで書いたためちょくちょく変換ミス等があった。見解の変更等ではないので一々断らずに修正した。

*1:ルビ「 び かん」。

*2:ルビ「ショック」。

*3:小野君と面会したときに、自分に疑いが掛かっていないことを知って安心しつつ、出国前に気の置けない元同僚にそれとなく真相を伝えたのであろう。

*4:ルビ「かみきれ」。