瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(188)

・叢書東北の声44『杉村顕道作品集 伊達政宗の手紙』(11)「車夫の行方」
 本作には執筆時期推定の手懸かりが全くない(と思う)。
 84頁上段14行めに2行取りで「松尾芭蕉の手紙」と同じ「※」を打って、前後に分けてある。
 物語は慶応四年(1868)五月十日、主人公の松村敬之介が彰義隊に参加すべく使用人に暇を出し、妻を中間の新蔵に託すところから始まる。
 この発端での登場人物は以下の通り。所謂ネタバレになるので、そういう興味のある方は以下、見ない方が宜しい。
・松村敬之介 小普請組二百石取りの旗本。二十四才(1845生)
・妻の夏井 十九才(1850~1868.五.十)
・山田藤三郎 先代以来の用人。六十爺さん(1809以前生)
・新蔵 若党兼中間。二十五の厄年(1844~1886.12)
・お多喜 下女。銚子の貧乏漁師の娘。十六才(1853~1883.7.21)
 全焼した屋敷の焼跡から見付かったと云う焼死体の身許を確かめるべく、銚子を訪ねた敬之介は江戸に戻っても仕方がないのでそのままお多喜の父・庄吉、兄・多吉に弟子入りして漁師になる。そして、79頁上段7~12行め、

 こうして、一家の宝のように大切にされながら、/敬之介はすっかり生れかわり、銚子の荒海に朝夕/親しみつつ、明治九年という年を迎えた。
 この年、敬之介三十二才、お多喜二十四才。こ/の間、ごく自然な成り行きで、二人は夫婦になっ/ていた。


 明治九年(1876)は8年後だから勘定は合っている。
 79頁下段6~8行め、

 翌十年は西南戦争で、又々世情騒然。
 この年、十一月二十五日は、亡父松村敬之進の/十七回忌に当るので、‥‥


 父が死んだのは文久元年(1861)十一月二十五日と分かる。この法要を機会にお多喜の一家が説得して、敬之介・お多喜夫婦は東京に出ることになる。
 お多喜は敬之介が新政府の官員になることを望んでいるが、敬之介にその気がないので80頁上段18行め「十五年の春まで」お多喜の針仕事の稼ぎで暮らし、下段2~3行め「黒門町の駕籠松の親方で加藤松吉という/五十男と懇意になり」81頁下段5行め「翌年の花見時から」親方の世話で車夫として働き始める。
 従って、車夫となったのは明治16年(1883)だと思うのだが、お多喜の書置きには93頁上段12行め「十五年の夏前」に車夫として働いているうちに思いがけない人物と再会したことが述べてある。この辺り、やや混乱が生じているようである。
 83頁上段2行め「糸柾」にルビ「いとまき」とあるが「いとまさ」。
 87頁上段10~16行め、

 小雪催いの正月空で、敬之介も漸く四十才。*1
 四十才と言えば、男も分別盛り、儒者不惑と/いい、気取り屋は初老という。*2
 しかし敬之介に限っては、このところ、ずっと/惑いっ放しだった。*3
 その上上野の広小路から、年の頃三十二三の官/員風の恰幅のいい客を拾った。


 敬之介の年齢からしても車夫になった翌年、明治17年(1884)になったところで、年齢は合っている。ここで注意されるのは「年の頃三十二三の官員風」の男で、88頁下段17行め~89頁上段6行め、

 と、客が少々言葉遣いを改めて、出した名刺には、
 福島県二等警部【88】
 福島警察署長
   服部文次郎
 とあった。
「僕は佐幕の領袖庄内藩の田舎侍です。お禄は四/百五十石でしたが、お旗本の君から見れば陪臣*4と/いうことになりますかな。

とあって、安政元年(1854)生で三十一歳の杉村氏の父・杉村正謙がモデルのようだ。当時、2019年10月2日付(131)に見たように福島県西白河郡長だったが、その前後に幾つかの警察署長を務めている。「服部」と云うのは正謙の母の実家で、一時期、杉村家の次男であった正謙が養子に入っていた。


 なお「山形新聞」2021年10月3日付読書欄にフリーライター日下部克喜による本書の書評が出ているが「吾妻おろし」に登場する福島警察署長・服部正典が、杉村正謙をモデルとしている旨の指摘があるが、時間がなく読むことが出来なかった。
 話を「車夫の行方」に戻そう。――89頁上段15~16行め、服部警部が「明治も既に十六/年、」と言っているのが少々気になる。
 90頁上段4~8行め、

 そうこうしているうちに、明治十九年の夏が来た。
 お多喜が殺されてから、満三年も経っているの/に、本件は迷宮に入り、犯人はいまだに捕らえら/れていない。
 七月の声を聞くと、‥‥

とあって、お多喜が殺されたのは明治16年(1883)の、84頁下段3行め「七月の二十一日」で間違いないようだ。
 そしてお多喜の書置きをコレラ騒ぎの中で発見するのだが、91頁下段8行め「手記は觀世繕で綴じられており、」とあって「觀世繕」にルビ「か ん ぜ よ う」とあるのだけれども「かんぜより」だろう。普通は「観世縒」と書く。
 94頁上段14行め「近頃、あの福島の服部警部が警視庁に/栄転して来て」とある。
 最後、95頁下段12行め「明治二十七年」の「日露戦争」に出征した駕籠松の親方の甥・一柳正之助からの消息に、96頁上段1行め「この地の支那人で、張敬槙という男」が、敬之介にそっくりだったと知らせて来た、と云う結末になっている。
 以上『彩雨の屑籠』所収3篇は、何だか似たような話である。登場人物の死の真相が、書置き(遺書)によって判明する。「伊達政宗の手紙」では、捜査関係者の推測が遺書によって覆され、「松尾芭蕉の手紙」では、遺書の内容が、その後の伝聞によって覆される。そして、さらに2篇ともどんでん返しのオチが付く。この2篇が並べてあると若干焼き直しのような印象を受ける。もちろん審査した方は片方しか読んでいない訳だからそんな感想は持ち得ないはずだが、――出来ることなら「オール讀物推理小説新人賞」と「小説サンデー毎日新人賞」の選評の紹介まで、本書で済ませて欲しかった、と、どうしても思ってしまうのである。
 この「車夫の行方」、松本清張西郷札」に似ている。叛乱軍に参加した若者が、家に戻ってみると跡形もなく、家族の消息も分からない。車夫となって因縁の人物に再会し、その人物(の関係者)に騙されたことを知って復讐(を決意)する、と云った辺りが重なる。――何の条件なしに「西郷札」と「車夫の行方」を並べたとすれば私は後者を取りたいところである。しかし「西郷札」が先行すること、後の国民的作家の処女作と云うことは動かないから、どうしても前者を取ることになってしまう。(以下続稿)

*1:ルビ「もよ」。

*2:ルビ「/しょろう」。

*3:ルビ「/まど」。

*4:ルビ「またもの」。