瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(093)

・石沢清『北アルプス白馬ものがたり』(3)
 本書は12月20日付(091)に引いた「はじめに」に拠れば、昭和42年(1967)から原稿用紙に書き始め、さらに「広報はくば」に縮約して連載していたのを、好評につき纏めたものと云う。
 「ものがたり」と題している通り、読物として書かれており、面白く読めるが色々整い過ぎている。一方で年月日をわざと(?)曖昧にしたところがあって、そこは出来るだけ明確にして欲しかったと、と思うのである。
 さて、私が本書を手にしたのは勿論、雪女の話が載っているだろうと思ったからである。――本書には「箕吉と雪女」との題で出ているのであるが、他の内容も暫く前から取り上げている青木純二や杉村顕道等の著述に関係しないでもない。だからそれ以外の内容についても一通り見て置こうと思うのである。
 まづ最初の2章について。
白馬岳の夜明け
【1】白馬連峯に名をつけた年寄り
 白馬連峰の峰々に急遽、好い加減に名前を付けたとする滑稽譚。
【2】白馬につかれた馬場先生
 小池直太郎『小谷口碑集』の素材となった『小谷四ヶ庄傳説集』を中心となって纏めた馬場治三郎の後半生。前半生については全く触れていない。著者は同情的に描いているが、この通りだったとすれば家庭人としても、教員としても、かなり問題のある人物であったと云わざるを得ない。また、歿年月日も示されていない。
【3】白馬岳を拓いた松沢青年
 白馬山荘の創設者松沢貞逸(1889.7.8~1926.9.1)と、彼の事業を引き継いだ下川富男(1907.2~1945.6.30 戦死)について。
【4】ボッカとガイドの物語
 明治30年頃から昭和30年代までのボッカの変遷。
【5】白馬スキーのあけぼの
 明治末から昭和30年代までのスキー。末尾、48頁14行めに下寄りで小さく「―この文は先輩に当たり長い病床にある前田利雄氏に頼るところが多い―」とある。
【6】スキー馬鹿、平林先生
 昭和20年代にスキー場を整備し選手の養成を行った平林勝義(1961歿)について。
【7】冬の大黒岳の奇蹟の赤子
 白馬銅山と大黒鉱山について。白馬銅山は55頁8行め「七年で閉山になってしまった」10行め「白馬銅山閉山の翌年、日露戦争になり」大黒鉱山が開発されたとあるが、59頁2~3行め「白馬銅山は明治三十四年に開かれ、六年後に閉山。大黒鉱山は明治四十年に開かれ、大正七年に/閉山。」とあって、明治37年(1904)から明治38年(1905)の日露戦争と時期が合わない。
【8】白馬頂上へ巨石をあげた山男
 昭和16年(1941)に白馬岳頂上に建設された風景指示盤の花崗岩の台座を運び上げた富士山の強力、小宮について。
【9】白馬に登った馬
 大正末の夏に白馬岳に3頭の馬を連れて登った高田連隊について。
【10】アルプス越えの送電線
 大正末、北アルプスを越える送電線の越冬試験について。
白馬の遭難
【1】鑓温泉引湯工事の惨事
 明治9年(1876)の21名死亡の雪崩。但しこの節には年が示されておらず33頁4~6行めの簡単な記述の冒頭に「明治九年」とある。なお、この遭難は2019年8月18日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(105)」に見たように、青木純二『山の傳説 日本アルプス』には北アルプス篇【65】「二子岩の假小屋(槍ヶ岳)」として取り上げられ、杉村顕『信州百物語』の【30】「槍ヶ岳温泉の話」に引き継がれた他、7月26日付「山田野理夫『アルプスの民話』(4)」山田野理夫『アルプスの民話』の【2】「上人の話(槍が岳)」にも言及があるが、2019年8月28日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(07)」では槍ヶ岳周辺に二子岩や温泉などが存しないことを指摘したのみであった。その後、中島正文と長沢武の著書によって白馬岳の南に連なる鑓ヶ岳の中腹、現在の白馬村の鑓温泉であること(すなわち青木氏が鑓ヶ岳を槍ヶ岳と勘違いしたのを杉村氏と山田氏がそのまま引き継いだこと)が分かったが、何も書かないまま来てしまった。遠からず中島・長沢両氏の著書に触れつつこの件を取り上げたいと思っている。
【2】うるっぷ草の遺書
 大正末の8月にローソク岩附近で自殺した東京商科大生がウルップソウに爪で書いた遺書。
【3】八方尾根の息ケルン
 昭和12年(1937)12月26日遭難の大阪の青年教師西阪息を記念して、父の西阪保治(1883.8.16~1970.1.26)が建てた八方尾根の息ケルンについて。なお本文は「西坂」としているが「西阪」が正しい。また第一ケルンと第二ケルンの2つを息ケルンとしているが、ネット情報では第二ケルンのみ「息ケルン」と呼ばれている。
【4】大雪渓、若き女教師らの集団死
 昭和21年(1946)7月30日、大雪渓を登山中にガスで道に迷い、暴風雨に襲われた名古屋の教師のパーティー男3名女5名のうち男1名を除く7名と、別パーティーの会社員1名の合計8名が凍死。
【5】池田少年の遭難と五つの鐘
 昭和12年(1937)4月、黒菱での東京鉄道局主催の春山スキー講習会での遭難。
【6】ある二重遭難
 昭和32年(1957)3月8日に明治大学の学生2人組が滑落、無事だった1人が負傷者を雪洞に残して救援を求めに行くが、吹雪のため救援隊はようやく12日に雪洞に到達、しかし負傷者は不在、そこを雪崩が襲い救援隊に加わっていた明治大学の学生2名(うち1名は最初の遭難者)と千葉大学の学生2名が呑まれ、雪消えの5月に計5名の遺体が発見される。
 これらの遭難については【1】はWikipedia白馬鑓温泉」項にも菊地俊朗『白馬岳の百年』を典拠として記載されている他、【3】は「息ケルン」の銘板の写真について登山者のブログ等に上がっている。【1】と【6】は新潟大学教授・和泉薫「日本の雪崩災害データベース」に記載されている。(以下続稿)