瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(01)

・中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』昭和六十一年七月十五日発行・定価 九、五〇〇円・桂書房・口絵+目次+593頁・A5判上製本
 カラー印刷の折図(56.8×56.0cm)が付く。キャプションは下辺の下左寄りに明朝体横組みで「「黒部奥山廻繪圖」文化6年 (1809)浮田覚右衛門作成。富山市浮田家所蔵。原寸95センチ平方。中島正文著『北アルプスの史的研究』付録。昭和61年7月15日発行。桂書房(複製・コピーを禁ず)」とある。
 表紙は赤い布装で丸背の背表紙に金文字の明朝体太字で大きく標題、やや大きく明朝体で「中島正文著」少し空けて最下部に横並びで「桂 書 房」とある。
 見返し(遊紙)は柴色、次いで 黄土色の扉に小豆色で、中央に背表紙と同じやや横長の明朝体太字で大きく標題、右上に明朝体で「中島正文 著」、左下に版元名と社章。その次にアート紙に白黒の顔写真(8.5×7.0cm)下に明朝体で「中 島 正 文 氏」。頁付のない「目   次」が3頁、「凡 例」が1頁、「六」項目あるが2~4行め、最初の項目を抜いて置こう。

一、本書は故中島正文氏の発表された山岳史関係研究論文を網羅し、これに山岳関係随筆雑筆数篇を/ 添付し、『杏文庫山岳古史料蔵目』を加えて一冊となし、書名は『北アルプスの史的研究』と題した/ ものである。


 より詳しい編集の事情は579~590頁、廣瀬誠「〈編集後記〉中島正文氏とその山岳史研究について」に、中島氏の研究の意義と、山岳史・郷土史・図書館事業に於ける交流について述べてある。口絵写真については、587頁6~10行め、

 五十三年三月十一日、私が津沢町の氏のお宅にお見舞に伺ったとき、氏はベットの上に起き直って歓迎された。/氏にはお子さんはなく、氏の夫人は重い病のため、かねてから入院中で、氏は不自由な体で全くの一人住まい。/向かいの遠縁にあたる菓子屋さんが食事・掃除などの面倒を見ているとのことであった。氏をお慰めするため、/みちみち作った俳句を数句お目にかけると、「ほう君は俳句もやるのかね」と喜ばれ、「この句はなかなかいい」/「これはまあまあだな」などと批評された。このとき撮った写真が本書巻頭に掲げたものである。


 不自由な体と云うのは586頁10行め「‥/‥、昭和四十三年四月、中風で倒れ、奇跡的に一命は取り止めたが、右半身不随の身となられた。‥‥」、年齢は591~593頁「 中 島 正 文 氏 略年譜」に、591頁1行め「明治31年10月20日 富山県西砺波郡津沢町(現、小矢部市)で誕生」とあるから西暦1898年生、脳卒中となったのは満69歳のときであった。すなわち巻頭写真は満79歳、精悍な顔立ち、意志を感じる眼差しで半身不随の数え八十一歳には見えない。593頁7~8行め「昭和55年2月12日 北陸中央病院入院 病状悪化/昭和55年4月2日 胃癌のため死去 享年81歳」そして588頁8行め「昭和五十七年三月」に廣瀬氏が「富山県立図書館長の職を定年退職」、そこで昭和58年(1983)に既に廃屋になりつつあった中島氏の遺宅を夫人の兄弟と調査、遺されていた史料・図書のうち、589頁7~8行め「山岳史料・山岳図書・山岳雑誌・古俳書の残部・/郷土史料等約三、二〇〇点四、五〇〇冊」を「富山県立図書館に寄贈」してもらい、9行め「貴重コレクション「中島文庫」として一括永久保存」されることになり、さらに13行め「採算がとれぬということで、いつも流れ」ていた、12行め「覆刻・再版の話」を13行め「このたび桂書房の勝山敏一氏が」引き受けてくれたことを述べ、以下編成について略述してあるのだが、著述目録がない。業績の全貌も分かるようにして欲しかったところだが、中島氏は前田普羅(1884.4.18~1954.8.8)の後を継いで俳誌「辛夷」の第2代主宰となった俳人でもあったから、それは本書にはそぐわなかったかも知れない。(以下続稿)
12月30日追記】中島氏の家は小矢部市津沢349にあった。現在は辻内科医院の前庭(駐車場)になっている場所に中島氏が局長(1923.5.25~1947.11.9/1950.12.22~1967.6.30)を務めていた津沢郵便局があった。向かいの菓子屋は中村福寿堂(あめや)。
12月31日追記】「略年譜」の最後、593頁13行め「昭和60年6月23日 小矢部市津澤町遺宅址に句碑建立除幕式、「おほらかに堰のり越すや春の水」」とあるが、この句碑は2014年9月及び2021年6月撮影の Google ストリートビューを見るに、辻内科医院の正門(東側)の北側にある。してみると辻内科医院の敷地が全て中島氏の旧宅であったものか。なお、昨日「現在は」と書いてしまったが、辻内科医院(辻外幸院長)は「富山県医師会 認定かかりつけ医一覧」の最後に2017年度認定として見えていたが、Google では「閉業」となっていて、確かに、2014年9月撮影の写真では医院の南と東のコンクリート舗装された広場のブロック塀に「辻内科医院駐車場」の看板が掛かっていたのが、2021年6月撮影の写真では2つとも取り外されている。また建物東側、玄関脇にあった診療時間などを示していたと思しき看板も同様に撤去されている。一般社団法人小矢部市医師会HPの病院一覧にも掲載されていない。
2022年1月1日追記】旧辻内科医院駐車場に挟まれた東南角、小矢部市津沢348にある平屋の上町会館が、旧・津沢郵便局であった。谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「金沢・富山」を見るに、昭和43年(1968)改測の1:25000地形図「砺波」では、南南西から来る道の突き当たり、中村福寿堂の斜向い辺りに〇に〒の記号のある建物があって、角ではない。以後平成8年(1996)部分修正の1:25000地形図「砺波」まで同じ位置に〇に〒の建物がある。しかしながら「写真1974-78」には上町会館の屋根が写っている。「写真1961-64」には上町会館も、西に隣接する津沢351の中島醫院も写っていない。中島醫院は「医師たちがつくるオンライン医療事典MEDLEY(メドレー)」に拠れば「この病院の情報は2094日前から情報取得できていません。移転、もしくは閉院した可能性があります。」とのことで、「この病院の情報は919日前から情報取得できていません。‥‥」となっている辻内科医院同様閉院、建物は現存しているが空き家になっているようだ。――中島氏の父は杏雨と号する俳人で、杏林すなわち医師だったのではないか、とも思うのだけれども、どうだろう。しかしながら平成28年(2016)まで営業していた親類の医院が隣にありながら、向かいの菓子屋の世話になっていたと云うのも奇妙である。隣家で同姓だけれども親類ではなかったのだろうか。それはともかく、上町会館の旧・津沢郵便局は、中島氏が昭和42年(1967)6月一杯で局長職を退いてから、隣接する土地もしくは中島家の敷地を一部を割いて新築・開業したのであろう。
2022年1月2日追記】当初「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(189)」と題していたが、余りにもそちらに関わらないままになったので記事の題を書名に改めた。