瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(10)

昭和17年(1942)上京の時期
 昨日見た「烏水翁のこと その一」に続く「その二」は、「上高地は神河内が正しき説」に続いて小島烏水が「山岳」第三十五年第一号(昭和十五年五月)に発表した「神河内地名考」を受けて中島氏が「山岳」第三十六年第一号に発表した「神河内志」にまつわる回想である。
 514頁11行め~515頁3行め、

 私は昭和の初め頃から黒部奥山の登山史料と取組んでいて、越中黒部峡谷を取り巻く越後、信濃、飛驒方面の/山岳古史料など手を尽くし足に任せて蒐集して居たが、漸く努力が酬いられて上河内方面の文献まで期せずして/入手に恵まれ、筐底には相当量のものが積まれて、何時か「神河内考」なる一文を草し、山岳史界の諸賢の批判/を問わんと心に期して居た。そんな矢先に烏水先生の「上高地は神河内が正しき説」が山岳誌上に現われ、次い/で幾年かの後に「神河内地名考」なる一文が加わったので、私は内心に大きなショックを受け心穏やかならぬも/のがあった。
 そこで急遽筆を執って纏め上げたものが「神河内志」の一篇であった。引用の史料としては穗高神社の蔵本を/【514】始め地元の図書館、営林署の古記録、松本藩山廻り記録、同庄屋記録の他に加賀藩尊経閣蔵書、石黒高樹堂文庫/本、杏文庫本など根本資料を駆使して綴り、珍奇な古絵図をも添えて、昭和十六年の山岳第三六年第一号に発表/した。


 9~18行め、

 当時、私のこの一文は松本方面の郷土史家達の反響批判を呼び、反撃を覚悟して予め島々、稲核、大野川など/の旧庄屋や素封家の手から恵まれた相当量の資料を半ば控置して応酬に備えたが、遂にそのことなく終った、そ/うした史料は私にも一寸手に余るもので、これは提げて烏水先生に御利用を仰ぎ、他日「神河内史」の総締めく/くりをして頂こうと思考し、その機会を伺うことになった。
 昭和十七年秋更けた某日、日本山岳会を訪れた翌日、私は鞄の底に神河内の古文献の二、三を秘めて省線阿佐/谷駅に下りた。先生のお住居は直ぐ判った。門内広く入込んだ閑静な手広い邸域で入口の狛犬の石像も面白く、/流石に一代の風流岳人のお住いと感に入った。
 恐る/\案内を乞い刺を通ずると、直ぐ夫人が出て来られて「主人は高血圧で倒れ長く病床に就いて居り、面/会は禁ぜられて居ります、が遠路わざ/\のお越しなので、何とかお目にだけ掛れましょうが談話など覚束なく、/御遠慮いただきたいので…」と気の毒そうに仰言るのである。‥‥


 躊躇する中島氏の前に、夫人に支えられながら烏水は玄関まで寝巻姿で出て来たが、中島氏の言葉を聞いて微笑し、頷くばかりであった。結局516頁15行め~517頁2行め、

 省線電車に乗り込んで、冷静を取戻し、初めて神河内の古文献が鞄の中にあることに気がついた。先生のお目/に入れ損ねた古文献など何となく色褪せた価値の少ない紙片のように寂しく思われた。
 
 先生が昭和二十三年に御逝去になってから先生に御利用して頂こうと思う大部の文献に手を着けるのが厭にな/【516】り、その内の一部を「播隆上人の生涯と槍ケ岳開山」と言う短文に使用したのみで今でも書架の片隅に眠ってい/る。


 してみると昭和17年に小島烏水に提供しようと考えていた「神河内の古文献」も、昭和21年(1946)3月の津沢大火を免れて昭和40年(1965)には中島氏の手許にあったことになる。ここの記述に「神河内志」と「播隆上人の生涯と槍ケ岳開山」、『杏文庫山岳古史料蔵目』と『中島文庫目録』を対象させれば見当が付けられるであろうか。
 なお、この、戦時下に「日本山岳会を訪れた」ときのことは、「回想の岳人」に活写されている。前置きは1月1日付(08)に引用した。続いて507頁5行め「確か昭和十七年春の或る日の午後であった。‥‥」と書き出されている。塚本繁松(1899~1947)、藤島敏男(1896.7.12~1976.9.9)、理事の鳥山悌成、そして509頁2行め「明日は応召入営します。‥‥」と言う3行め「山岳会々報を受持っている」望月達夫(1914.3.9~2002.8.21)と、4行め「僕も直ぐ入営します。」と言う副会長の黒田孝雄(1899.1.1~1945.8.18)に会っている。この回想に間違いがなければ、望月氏の入営時期から「春」だか「秋」だか、時期が絞れそうだ。(以下続稿)