瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(12)

・越信新道と宮永家系譜の論文構想
 さて、本書所収の文章のうち、最も新しいのは第五章「立山史談」の「立山詣日記――ある放送から抜粋――」で、昭和40年(1965)8月に、中島氏が主宰していた俳誌「辛夷」に発表している。これ以降の執筆がないことについては、廣瀬誠〈編集後記〉586頁4~8行め、

 氏は山岳史研究家で、同時に郷土史研究家でもあった。『水島村史』も『富山県逓信沿革誌』も氏はほとんど独力で*1/執筆された。『小矢部市史』は数名の委員が分担したが、中島氏も私も委員であったので、昭和四十年から四十二/年のころ、よく委員会で同席し、その帰途、高岡まで同行し、車中山岳史談に花咲かせたこともしばしばであっ/た。四十二年八月、委員会の帰途、中島氏はバスから降りそこねて転倒され、私があわてて抱き上げたことがあ/ったが、そのとき「中島さんもお年だな」と思ったことが今も印象深く脳裏に焼きついている。

とあるように『小矢部市史』の執筆、それから2021年12月25日付(01)に見たように昭和43年(1968)4月に中風で右半身不随になってしまったためであろう。

 但し意欲は衰えていなかったようである。587頁11~15行め、

 氏から速達郵便が届いたのは昭和五十四年七月二十四日、何事かと驚いて見ると、「越信新道(針ノ木新道)/と宮永家系譜について二つの論文を書きたいが、君の関係している『富山史壇』に載せてくれるか」とのことで/あった。(半身不随で右手がだめなため、左手でしたためられた、たどたどしい筆跡の葉書。これが氏から私の頂/いた最後の便りとなった)。私の論文を見て「一つ抜けていることがある。いずれ私が書く」とおっしゃった、そ/の針ノ木新道の研究をいよいよ執筆されるのだ。‥‥


 針ノ木新道の件については584頁17行め~585頁3行めに、恐らく中島氏が元気な頃のこととして述べてあった。

‥‥。私が針ノ木新道について小論を書いたとき、中島氏は「君の論文には大事なことが/【584】一つ抜けている」と評された。「どんなところですか」ときくと、「それは言うわけにいかんよ。私の所蔵史料で/なければわからんだろう。いずれ私が書く。それまでは絶対君に見せんぞ」とにこにこ笑いながら言い切られた/ものであった。


 587頁18行め「しかし、氏からはついにその論文は届かなかった。」そして遺宅の調査に入った際、588頁15~17行め、

‥‥、氏の絶筆ともいうべき越信新道・宮永系譜の両論文原稿は発見できな/かった。たとえ未完成であろうともと心に念じ、三回にわたって遺宅を調査したのであったが、ついに見出だ/し得なかったことは今もって心残りである。


 結果論になるけれども、中島氏が半身不随になった時点では早過ぎたかも知れないが、その後、不自由な身体で富山県立図書館の館長室に広瀬氏を訪ね、所蔵史料をいずれ富山県立図書館に寄贈する意志のあることを述べた折にでも、或いは「富山史壇」掲載の相談があった折にでも、多忙な広瀬氏には無理であったかも知れないが、然るべき人物を史料整理の助手として、或いは口述筆記役として、推薦出来なかったものかと思うのである。
 しかし、結局、全く執筆しないままだったのだろうか。それとも、富山県立図書館まで車を運転して付き添っていた「俳句のお弟子さん」辺りがその役を務めて、草稿類を預かっていたと云ったことはなかったであろうか。
 中島氏が最後に構想していた山岳史論文への思い(妄想)は尽きないが、翻って本書所収の文章のうち、最古のものは何かと云うと昭和3年(1928)8月、やはり「辛夷」に発表した、第八章「岳辺余録」所収の「山の話七つ」である。
 こう書くと第一章「黒部奥山と奥山廻り役」に収められている「黒部の古文書二、三」の末尾に「(『山小屋』昭和二年一〇月号)」とあるではないか、と云われそうだが、これは誤りである。そのことにまで筆を及ぼすつもりだったが長くなるので明日に回すこととする。(以下続稿)

*1:この行、句点以降字が詰まる。