瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(6)

 残る大きな異同は最後の頁の【風の盆案内】と奥付だが、これは後回しにして、一通り内容を見て置こう。
 カバー表紙には標題の下に横組みで、明朝体太字にゴシック体を小さく添えて2行「成瀬昌示/里見文明 写真」とあり、その下少し空けてやや小さく「執筆」として、2人ずつ5行「倉嶋 厚 小杉放庵/伯 育男 酒井 博/城岸 徹 長瀬一郎/高橋 治 紀野一義/成瀬昌示 言叢社 」最後の版元名の下に小さく「〈編集部〉」と添える。これは小杉氏と倉嶋氏の順序が入れ替わっている他は掲載順である。①初版②新版刊行当時、NHKのニュース番組の気象情報を担当して抜群の知名度倉嶋厚(1924.1.25~2017.8.3)を目立つように、大物ではあるけれども物故者の小杉放庵(1881.12.30~1964.4.16)よりも先にしたのであろうか。
 カバー背表紙には標題の下、3字分ほど空けて「成瀬昌示編  写真里見文明 執筆 」と1行、続いて割書にして「倉嶋 厚 伯 育男 城岸 徹 高橋 治 成瀬昌示/小杉放庵 酒井 博 長瀬一郎 紀野一義 言叢社〈編集部〉」と2人ずつ揃えて*1並べ、最後だけ左行が突き出る。そして最後にやや太く小さい明朝体で「言叢社」と版元名。
 注意されるのは編者の名前が「執筆」者を列挙した中に入っていることで、最初、私は本文の概説部分は成瀬氏が担当したのかと思っていたのだが、そうではなくて「言叢社〈編集部〉」が、【風の盆案内】の「●参考文献」に列挙した書物を参考に書き上げたものらしい。
 すなわち4~24頁「序章 風の盆の町」、25~40頁「第二章 風の盆の町筋」、41~②98③106頁「第三章 風の盆「おわら」のかたち」、②99~111③107~119頁「第四章 風の盆のこころ」のうち、第四章のみ題下に「成瀬昌示」とあって、書き振りを見ても外部の人間による概論風の第三章までとは、異なっている。
 もちろん、頁数の分だけ編集部による文章がある訳ではなく、各章に、序章には16頁【随筆】小杉放庵「風の盆」、第二章には38~39頁【随筆】倉嶋 厚(理学博士、気象キャスター「「風の盆」の季節―酔芙蓉・二百十日・不吹堂」、第三章には57~59頁【随筆】伯 育男富山県民謡おわら保存会演技指導副部長)「伯兵蔵のこと」、60~61頁【随筆】酒井 博(八尾文化会議委員)「江尻豊治のこと」、69~70頁【随筆】城岸 徹富山県民謡おわら保存会企画部長)「風の盆のおと」、71~72頁【随筆】長瀬一郎富山県民謡おわら保存会顧問)「風の盆に踊る」、84~87頁【随筆】高橋 治(作家)「並みのものじゃない」、②97~98③105~106頁【随筆】紀野一義(宝仙短期大学学長)「風の盆と私」随筆が挟まれ、他に目次では [ ] で括られている囲みの記事が46~47頁「曳山祭り」48~49頁「八尾絵図」52~53頁の中段下段「おわら古謡」62~63頁の中段下段「新作おわら」②100③108頁下段「おわら踊りの原形」②103③111頁中段下段の6行め以降「大面縄の話*2」、それから②109~111③117~119頁「「おわらの踊り方」旧踊り」も同趣の頁と見做して良かろう。この他に写真のみの頁が多いのはもちろんである。
 成瀬氏が本書の編纂を主導していないことは、その執筆にかかる第四章「風の盆のこころ」からも窺われる。②108③116頁中段16行めまで幼児期から昭和21年(1946)までを回想し、1行分空けて17行めから下段5行めに、再び郷里八尾を意識したときのことを、次のように述べている。

 それから三十有余年、県の文化活動の一端/を担うはめになり、あちこち飛び回っている/うちに、すっかり八尾のことにはごぶさたの/形になっていた。住いも富山市に持ち、老後/の生活をと考えていた矢先、再び人生の糸は/八尾にたぐりよせられていた。
 何十年ぶりかで観るおわら踊りは、龍宮の/宴に招かれたようで、ただ呆然と立ち竦むの/【上段】みであった。
 「時代は過ぎた」。町衆を眺めているとな/つかしい姿がチラホラ……いずれも半禿げか、/白髪頭……自分の白髪を忘れ「もう終わった」。/つくづう思い知らされた気がした。


 そもそも本書の企画が何処から持ち上がったものだが、写真を担当している里見文明(1935生)は言叢社が昭和61年(1986)10月に刊行した、昭和59年(1984)と昭和60年(1985)の川越祭り氷川神社神幸祭と山車祭礼を記録した、川越市観光協会川越市文化財保護協会・川越市山車町懇親会・川越市囃子連合会 監修『川越祭り』でも相川忠彦と写真を担当している。版元言叢社HPの「●定本/風の盆 おわら案内記」紹介ページには里見氏について「東京生まれ。父方は富山県出身、幼い頃、八尾町の隣町・大沢野に疎開して育った。日本大学芸術学部写真学科卒。報知新聞でスポーツ写真記者となったのち、家業に従事のかたわら石仏写真に専念。/写真集『石仏遍歴』 『川越祭り』 、共著に『カラー石仏』 『江戸・下町の石仏』 などがある。現在、江戸川石仏の会会長。」と紹介しているが、都内在住で祭礼を取り続けている訳ではなく、国立国会図書館サーチで検索しても石仏の写真を長く取り続けている人のようである。そうすると、公的な出版物と云うべき『川越祭り』の写真を担当するに当たって、言叢社編集部との打合せで風の盆の八尾の近くに縁故疎開していたとの話をしたことから、こうした企画が版元と里見氏双方から醸成されて行った――ように思われるのだがどうだろう。企画立案・編集過程の事情は一切説明されていないので、想像を逞しくするしかない。(以下続稿)

*1:「一」が半角分なので右と揃っている。

*2:ルビ「おおめんじょう」。