瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(7)

 前回、第四章「風の盆のこころ」にある、編者の成瀬氏が何十年(!)も風の盆を見ておらず、住居も富山市に構えていたとの記述を引用した。
 しかし、その後、八尾の実家に戻ったらしい。昨日の引用に続く最後の部分、②新版108頁③定本116頁下段、前を1行分空けて6~23行めに、近況を述べている。12行めまでを抜いて見よう。

 ところがおわらの縁は私の頭におかまいな/しに、まったく面識のない方々との不思議な/出会いをもってきてくれた。
 ヒョンなことから紀野一義先生麾下の面々/のお宿を引き受けることになった。「耄碌爺ィ/婆ァの二人暮らしの陋屋」は、一年一度の風/の盆に、若い命でわきかえることになった。


 この辺りの経緯は紀野一義「風の盆と私」に述べてある。②97頁③105頁上段~下段11行め、

 風の盆と私というより、西新町の成瀬昌示先生と私といったほう/がいいであろう。今から二〇年近くも昔、私は富山県の精神開発室/主催の校長研修会に三年連続で講師に招かれた。その時の世話役が/成瀬先生である。成瀬先生はこの時の講義に感銘して私の本を読む/ようになり、その一冊を松本さなえという女の先生の机の上に置い/たところ、今度は松本先生が私の本の愛読者になられた。この松本/さんが毎年のように私を風の盆に招かれる。五年目にして私はよう/やく八尾を訪れる気になり、昭和六二年の風の盆に初めて私は成瀬/家の客となった。その日、私は初めて成瀬先生に会い、成瀬先生の/祖父の成瀬岩松上等兵が金沢の連隊の銃剣術大会で表彰された額を/見、卒然として少年の日の父の話を思い出した。父は金沢の連隊の/衛生兵として日露戦争に従軍し、重傷の成瀬上等兵を助けた。この/成瀬上等兵の属する日本軍が山の斜面を登って頂上で突如ロシア/軍と衝突し、両軍銃剣を構えたまま石のように動かなくなったとい/う。中隊長が「四天王はおらぬか」と大声で呼び、銃剣術の四天王/【上段】といわれた成瀬上等兵は「ここにおります」と叫ぶなり、スルスル/と進み出てロシア兵を刺した。あとは白兵戦となり日本軍が大勝を/収めた。そのあと成瀬上等兵は瀕死の重傷を負い、父の献身的な看/護で命をとりとめたのである。その話を少年の私は父の口からたび/たび訊いていたので、「もしや成瀬上等兵は四天王と呼ばれていな/かったか」と成瀬先生に訊ねたところ、「そうだ」といわれる。私/は少年の日の父の話を語り、成瀬先生は「その上等兵こそ成瀬岩松/であります」と答えられたので、その話をきいていた人たちは大騒/ぎになった。
 翌年、昭和六三年の風の盆で私は鏡町の踊りの列について歩き、/先頭を行く‥‥


 定年退職後に八尾に戻り、昭和62年(1987)から紀野一義とその教え子たちの宿を引き受けることになったようだ。
 20年近くも前と云うと昭和40年代後半、成瀬氏が50歳くらいの頃であろう。公立学校の教員、そして校長であれば、確かに2学期の頭、9月1日から3日に行われる行事に参加する訳に行かなかったであろう。
 紀野氏は同じときのことを別に書いているが、そこでの書き振りはこことは違っている。但しそちらは原文をまだ見ていないので、追って確認し次第記事にすることとしよう。
 さて、成瀬岩松については2021年11月25日付「日本の民話55『越中の民話』第二集(4)」に見たように、石崎直義 編『越中の民話』第二集に、妻と思しき初枝と連名で9話の「話手」として見えている。石崎氏は明治17年(1884)生の上田はるの話を特筆して扱っているのだが、年齢は日露戦争(1904~1905)に出征している成瀬岩松の方が少し上ではないかと思う。(以下続稿)

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 感染が拡大すると「予想を超える」とか云う馬鹿な専門家の無責任な言い訳を聞く羽目になるのは、何度目だろう。素人でも欧米を見ておれば予測出来たのに。しかしこうならないようにすると橋下徹やらに口汚く罵られるから失敗しないではいられないのだろう。まぁ英米があの体たらくで、英米のやることは失敗していても真似したがるらしい。とにかく気にしなくなった。――先週の火曜の朝、冷たい雨だったこともあるが満員列車の窓が締め切られていて窓が曇って中が見えないくらいだった。しかし、誰も換気しようとしないのである。これはもう駄目だと思ったら、今日は分かっているだけで3万人である。実際はどれだけいることか。しかしその後、雨の日でなくても、暖かい昼でも窓が閉まっている車輌の方が多い。もうどうでも良くなったかのようである。これまで罹らなかったから同じようにしていれば良いと、すっかり刷り込まれている。
 もう罹っているかも知れない。しかしわざわざ検査を受けようとも思えない。NHKのニュースはこうなった責任を一向に追及しない癖に、国民には少しでもおかしいと思ったら検査を受けろと云う。何処までも自己責任、こちらに丸投げ、しかも東京五輪も国民のせいにし始めた。五輪選手の英雄扱いも徐々に既成事実として行いつつある。五輪なぞもうやらなくて良いだろう。これに懲りないとは、本当に御目出度いと云うか、度し難い。そう云えば都の基準の重症者と云うイカサマ、五輪をやるための目くらましとして始めたはずなのに、未だに放置されている。好い加減に余所との整合性を取らせろ。国がやらないならマスコミが正しい数字で報道すべきだろう。しかしもう権力と癒着して腐り切っているから無理だな。朝日新聞を止めて本当に良かった。