瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(07)

Wikipedia「道了堂跡」(1)
 小池壮彦が、2016年刊『怪奇事件の謎』で、後付けの知識で誤って書いてしまったと私が考えているのは、125頁9~10行め「‥‥。道了堂はすでに解体されていたが、残骸はまだあった。寺跡に続く‥‥」との記述です。1996年刊『東京近郊怪奇スポット』にはこのような記述はありません。
 複数の文献、そしてネット上の情報の多くに、昭和58年(1983)に八王子市によって道了堂が解体された、とあります。小池氏が道了堂を訪ねたのは昭和59年(1984)3月15日ですから、確かに『怪奇事件の謎』に記述されているような状態になっていたはずなのです。
 しかし、実はこれは誤りです。小池氏は『怪奇事件の謎』執筆に際しこの情報に接して、自分の記憶を書き換えてしまったのだと私は思っています。
 しかし、この説は相当流布しています。――まづネット情報から、手始めに「道了堂跡」で検索してするとトップに上がる Wikipedia の項目から見て置きましょう。事の序でに解体時期だけではなく、どのような紹介がなされて来たのか、少々細かく点検して置きたいと思います。

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 Wikipedia に「道了堂跡」が立項されたのは2009年12月17日で、以下のような簡単なものでした。

昭和38年にこのお堂を守っていた老婆が殺された。 そして昭和60年に絹の道の整備で取り壊された。 他にも女子大生の死体遺棄現場でもある。


 この記述ですと小池氏が訪れた翌年の昭和60年(1985)まで、道了堂は存在していたことになります。それから「女子大生の死体遺棄現場でもある」と云うのは、2月9日付(04)に見た『東京近郊怪奇スポット』の「道了堂の近く」よりも踏み込んだ(!)表現になっています。
 そしてその日のうちにHN「多摩に暇人」によって「道了堂跡(どうりょうどうあと)とは八王子市鑓水にあった絹の道(神奈川往還)に関係する文化財である。」として「概要」が、

1874年(明治7年)に鑓水商人が浅草花川戸から道了尊を勧請したことが始まりである。1875年(明治8年)には道了堂が建立され絹の道の中継地として栄えたものの1908年(明治41年)に横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると絹の道が衰退していき1983年(昭和58年)に解体されている。階段を上ったところにある二基の灯籠は1890年(明治23年)に作られている。
1990年(平成2年)に大塚山公園として整備された。
塚山公園から絹の道資料館までの未舗装区間文化庁によって「歴史の道百選」に選定されている。

と全面改稿されています。ここで昭和58年(1983)と云う、現在最も流布されている説が Wikipedia に登場しました。――以後「道了堂跡」項は基本的にこの記述を基にして加筆訂正が行われて現在に至っています。その後加筆された箇所を仮に太字にして現在(最終更新 2021年12月24日)の「概要」を抜いて置きましょう。

1874年(明治7年)に鑓水商人が浅草花川戸から道了尊を勧請したことが始まりである。1875年(明治8年)には道了堂(正式名称:永泉寺別院曹洞宗大塚山大岳寺[1][2][3])が建立され絹の道の中継地として栄えた
1908年(明治41年)に横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると絹の道が衰退していき、1963年(昭和38年)9月10日に堂守りの女性が殺害された事件[1]があって以降、無住となり堂宇が荒廃[4]、1983年(昭和58年)には不審火による火災で堂宇が焼損したため、八王子市によって道了堂は解体された。
その後、旧道了堂境内は1985年(昭和60年)に八王子市が策定した市指定史跡「絹の道」の保全と環境整備を目的とする基本構想にしたがい、1990年(平成2年)9月[5]に大塚山公園として整備された。
塚山公園から絹の道資料館までの未舗装区間文化庁によって「歴史の道百選」に選定されている。大塚は鑓水の旧小字である[5]。
階段を上ったところにある二基の灯籠は1890年(明治23年)に作られたものである。
稲川淳二による首なし地蔵の怪談[6]で舞台になった場所でもあるが、実際は絹の道や尾根道を辿るハイカーが多く通過し、チワワが散歩するような場所である。ただし夜間は照明が乏しいため、転倒などの事故に注意すべきである。


 大きな違いとしては、まづ解体に至る経緯が堂守の老婆殺しから説明されていることが挙げられましょう。そして最後に、稲川淳二の怪談の舞台だけれども日中は別段暗く寂しい場所でも何でもないことを強調する記述が附加されております。
 この加筆部分に関しては「脚注」に典拠が一々挙げてあります。

1.^ a b 辺見じゅん『呪われたシルクロード』角川文庫、1980年。ISBN 978-4041475010。
2.^ 『朝日新聞』1963年10月5日夕刊。
3.^ 東京都宗教法人名簿(令和2年12月31日現在)|東京都生活文化局 (PDF)
4.^ 中央電子株式会社. “八王子散歩道 大塚山公園/道了堂跡”. 2010年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月10日閲覧。
5.^ a b 八王子辞典の会『八王子辞典』かたくら書店、2001年。ISBN 4-906237-78-9。
6.^ 稲川淳二の真夜中のタクシーなど。


 ごく細かいところ2箇所に [5]『八王子事典』が活用されていますが、『八王子事典』の記述については別に検討することとします。
 それよりも私が気になったのは [4] の、八王子市に本社がある中央電子株式会社の、以前のHPにあったコーナー「八王子散歩道」の「塚山公園/道了堂跡」なる記事で、次のようなものでした*1

「絹の道」の北の端にある大塚山公園(おおつかやまこうえん)は、道了堂(どうりょうどう)の跡地【写真】です。
道了堂(曹洞宗 大塚山)は、明治8(1875)年に八王子と鑓水(やりみず)の豪商によって建てられた永泉寺の別院です。 生糸商人を中心に、鑓水地方の信仰の拠点としてにぎわいました。
昭和38(1963)年に、このお堂を守っていた老婆が殺されてからは空き家となり荒れ放題だったのですが、 昭和60(1985)年からの「絹の道」整備により取り壊され大塚山公園になりました。
公園内の石段や石碑、石燈篭が往時をしのばせます。


 続いて「住所」と「バス」そしてバス停までの道順が記述され、「参考文献」として八王子市の刊行物2点と地元出版社のウォーキング案内書1点が挙がっています。
 さて、この記事ですと道了堂が解体されたのは八王子市が昭和60年(1985)以降「絹の道」整備に乗り出してから、と云う風に読めます。
 そして、どうにも気持ち悪くて仕方がないのは、その前の「空き家となり荒れ放題だったのですが」との記述は典拠として活用しているのに、続く道了堂解体を「絹の道」整備事業に絡める記述の方は何故か採用していないことです。――ある文献の、必要な一部のみ安易に採用して、既存の記述と対立する箇所は無視して顧みないような行き方が、学界におった頃から私にはどうも不思議でならなかったのですが、大学の先生の論文にもこの手の摘まみ喰いが横行していますので、‥‥いえ、話が逸れました。それはともかく、加筆編集が進んだ後になってもHN「多摩に暇人」執筆の、ベースとなる部分は全く手付かずのままなのです。
 Wikipedia「道了堂跡」項には色々と問題点があるのですが、そのことはこの項の編集過程を辿ることによって初めて、何故こんな書き方になって(しまって)いるのか、諒解されるのです。例えば、上に引いた現在の「概要」の、最後の段落は少々奇妙です。「チワワ」を持ち出す必要など全くないでしょう。――実はこの段落は、2020年3月時点では最初の一文だけの、ほんの添え物扱いだったのを2020年5月25日にIPユーザー「2400:7800:4d71:8700:3d1e:de3a:7cab:5f3c」によって、

稲川淳二による首なし地蔵の怪談[6]で舞台になった場所でもある。この怪談や前出の事件などがあったため、著名なミステリースポットとされ肝試しなどの対象にされがちであるが、実際は絹の道や尾根道を辿るハイカーが多く通過し、チワワが散歩するような場所である。ただし夜間は照明が乏しいため、転倒などの事故に注意すべきである。

と加筆されていたのでした*2。これでも何となく、段落全体が、項目全体から浮いている印象を受けますが、仮に太字にした部分を2021年1月14日にHN「WEWEE」が削除してしまったために、いよいよ浮いてしまったような按配になっております。いえ、そもそもこの、少々奇妙な最後の段落そのものが、実は過去に展開された凄まじい(?)編集合戦の名残なのです。次回以降そのことも絡めて、Wikipedia「道了堂跡」項の来歴を一通り眺めて行くこととしましょう。(以下続稿)

*1:2012年9月10日に「archive.today/webpage capture」に capture されています。

*2:2020年9月22日にHN「C-Flyer」が「ミステリースポット」を「心霊スポット」に修正。【2024年3月12日追記】上の引用の後に、読点のみの1行が何故かそのままになっていたのを削除した。