瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(11)

Wikipedia「大塚山公園」「鑓水」「由木村」
 Wikipedia道了堂跡」項は以後、2月12日付(07)にざっと見ただけですが大きく書き換えられることなく現行の版(最終更新 2021年12月24日)に至っておるようです。
 そこで今回は、Wikipediaにある道了堂跡に関する記述をもう少々拾って置きましょう。
塚山公園」項は、2010年1月13日にHN「Tunnel-mania」によって立項されましたが、その「概要」に、

公園内には、明治8年に建てられた小泉寺の別院であった道了堂の跡地がある。(詳しくは道了堂跡を参照) 昭和38年にこのお堂を管理していた老婆が殺害される事件が起きてからはお堂は荒れ放題になった。 現在ではお堂を取り壊し大塚山公園とされて整備された。 公園内には、道了堂跡をはじめ、石段や石灯籠などが残っている。

とあったのが、同日中に、HN「103momo」によって、

八王子市鑓水の北端に位置する。標高は213.4m。公園内には、1875年に建てられた小泉寺の別院であった道了堂の跡地がある。(詳しくは道了堂跡を参照) 1963年にこのお堂を管理していた老婆が殺害される事件が起きてからはお堂は荒れ放題にな[1]。 1990年、八王子市によってお堂を取り壊し大塚山公園とされて整備された。 公園内には、道了堂跡をはじめ、石段や石灯籠などが残っている。

と年号が西暦に改められ脚注「1.^ 中央電子株式会社. “八王子散歩みち 大塚山公園/道了堂跡”. 2010年1月13日閲覧。」が附加され、さらにHN「多摩に暇人」によって道了堂が取り壊された年が加筆されました(仮に太字にしたのがHN「多摩に暇人」の加筆)。2月12日付(07)に見たようにHN「多摩に暇人」は「道了堂跡」項に2009年12月17日に「1983年(昭和58年)に解体されている」と書いていたのですが、こちらでは何故か「1990年」としております。それから「道了堂跡」項に2017年2月10日に中央電子株式会社の旧HPにあった「八王子散歩道」の記事が典拠として記入されることになったのは、元々この「塚山公園」項がこのように使用していたことに由来するもののようです。
 その後、2012年12月23日から2013年1月18日まで IPアドレスの上8桁が「182.249.24‥‥」となっている執筆者(たち?)によって何度か加筆修正された際に、2012年12月24日に道了堂が取り壊された年が「1983年」と改められるのです。

八王子市鑓水の北端に位置する。標高は213.4m。公園内には、1875年に建てられた永泉寺の別院であった道了堂の跡地がある(詳しくは道了堂跡を参照)。1963年にこのお堂を管理していた老婆が殺害される事件が起きてからはお堂は荒れ放題となり[1]、1983年、八王子市によってお堂が取り壊され、1990年には大塚山公園として整備された。公園から絹の道を下ったところにある絹の道資料館も同時に整備・開館したものである。
公園内には道了堂跡をはじめ、石段や石灯籠などが残っている。また、公園の入り口には絹の道碑がある。なお、御殿橋から碑まで続く1.5km程の絹の道は市の史跡に、このうち絹の道資料館と碑の間にある約1kmの未舗装部分は文化庁の「歴史の道百選」に選定されている。


 その後の編集は2016年1月22日にHN「Bintabo」によって「歴史」の節が立てられ『皇国地誌』の記述が紹介されたのを除けば、 リンク切れの調整などが中心で「概要」は現行の版(最終更新 2021年12月24日)でもそのままになっております。
 「道了堂跡」項もこの程度の記述で良いのではないでしょうか。いえ、この「塚山公園」項と統合するべきではないか、と思うのです。
 「鑓水」項はHN「多摩に暇人」によって2009年9月14日に立項されました。当初から「絹の道」の節に「 ・大塚山公園(道了堂跡)」とあったのですが、2009年10月16日に「道了堂は1993年に解体」との説明が加筆されました。2009年11月5日には更に和暦「(平成5年)」が加筆されています。そして2009年12月17日に説明が「道了堂は1983年(昭和58年)に解体」と改められ、これに2009年12月19日に「されている。」が加筆、2009年12月28日に「道了堂は1983年(昭和58年)に解体され大塚山公園公園として整備されている。」と、ここまでの加筆は全てHN「多摩に暇人」によるものですが、以後、現行の版(最終更新 2021年11月8日)までほぼそのまま、読点が打たれただけで「公園」の衍字もそのままになっております。
 「由木村」項は2006年11月1日に立項されましたが、2013年4月13日にHN「Bintabo」によって加筆された「施設/寺社」の節に、

・道了堂
1875年(明治8年)、鑓水商人の大塚忢郎吉を中心に、浅草花川戸から道了尊を勧請して創建された。鑓水の繁栄の象徴とされたが、次第に荒廃し、1983年に倒壊しかけた堂が撤去された。

と「道了堂跡」項を典拠にして説明され、現行の版(最終更新 2022年1月24日)でもそのままになっております。
 こうして見ると、各項曲折はありますがいづれも昭和58年(1983)に道了堂が解体された、と云うことで現行の版は一致していることになります。(以下続稿)