瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(12)

・『八王子事典』の「道了堂」
 さて、前回までしばらく、Wikipedia の八王子市鑓水の道了堂跡(大塚山公園)に関する記述を見て来ました。
 その中で、道了堂が解体された時期について、当初、昭和60年(1985)や平成5年(1993)等と云う記述もあったですが、2009年12月に「道了堂跡」項及び「鑓水」項にHN「多摩に暇人」によって昭和58年(1983)と書き込まれ、以後「塚山公園」項及び「由木村」項に波及して、Wikipedia 上では昭和58年(1983)と云うことになっております。中でも「道了堂跡」項では、2017年2月10日にHN「Kanachan」によって「1983年には不審火による火災で堂宇が焼失したため」と、解体に至った直接の理由まで、説明されております。
 しかしながら、これらの記述には脚注や出典が附されておりません。何によって書いたのか俄に分からないのです。
 ただ、昭和58年(1983)と云う時期は、八王子に関して信頼出来る(と思われている)書物に出ておりまして、HN「多摩に暇人」は恐らくこれに拠ったものと思われます。その書物がすなわち当記事「道了堂」に取り組む前に取り上げていた八王子事典の会 編著『八王子事典』なのです。
 『八王子事典』の諸本、①初版第1刷(1991年)第2刷(1992年)②改訂版(2001年)③Web八王子事典(2008年)については1月29日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(1)」及び2月2日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(5)*1」に述べました。
 見出しは①558頁2行め「道了堂(廃寺)」、②568頁9行め「道了堂(廃寺) どうりょうどう」は読みを添えております。しかしながら③には見当たらないようです。続く本文は一致(①558頁3~9行め②568頁10~16行め)しております。

 鑓水大塚山上.大塚山道了堂.曹洞宗鑓水永泉寺別院./1873年(明治6)3月渡辺大淳が生糸商人と協力して東京花川/戸から堂宇を移築,永泉寺別院として創建した.明治30年代/には石版画に描かれるなど鑓水文化の栄華を誇っていたが,/その後,衰退し,昭和前期からは堂守が管理していたが,殺/害されたあと無住となり,堂は荒廃し1983年(昭和58)には解/体された.その跡地は90年八王子市が公園として整備した.


 2月12日付(07)に見た、Wikipedia道了堂跡」項の現行の版(最終更新 2021年12月24日)の脚注 [5] に使われているのは次の2つの項目です。まづ①104頁10~12行め②108頁4~6行め、

大塚(2)
 鑓水の旧小字.同町の北端,道了堂跡のある大塚山から東/にかけての丘陵上の地を呼んだ.


 これは③にもあって「おおつか(2)」と読みが添えてあります。それから①107頁2~6行め②108頁4~6行め、

大塚山  おおつかやま
 鑓水の北端,片倉町との境にある山.高さ213.4m.別称:/大塚台,鑓水嶺.山頂からは十二州を望むといわれる.道了/堂があった.90年(平成2)9月,大塚山公園として整備され/た.→鑓水峠


 参照するように指示されている「鑓水峠」項など*2にも道了堂について触れる記述がありますが、そこまで拾わなくても良いでしょう。
 それはともかくとして、道了堂が昭和58年(1983)に解体された、とする記述に話を戻しますと、――数年前のことを郷土史家たちが編纂し、地元の郷土史誌専門の出版社から出したその名も『八王子事典』に載せているのですから、これは間違いないだろうと思うところです。しかしながら2月5日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(8)」等に述べたように、どうもこの『八王子事典』は細部にかなり誤りがあるようなのです。そして、この昭和58年(1983)も、実は間違いです。しかもその根拠は『八王子事典』の版元であるかたくら書店の別の出版物から、得ることが出来るのです。(以下続稿)

*1:3月1日追記】何故か当初「2月17日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(9)」と誤っていたのを訂正した。

*2:「絹の道」項「絹の道の碑」項「鑓水」項。