瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子事典の会 編『八王子事典』(11)

・相原悦夫『春秋一会・私の人ごよみ』(2)
 昨日の続き。
 本書について記述があるのは「八王子での出会い」と「著者の横顔」である。
 「八王子での出会い」には33人が50音順に並んでいる。このうち本書①初版の編著者5名では、著者を除く4名のうち、
・16人め「佐藤 広 (八王子市市史編さん室長)」46~48頁
・17人め「柴田隆行 (多摩川の自然を守る会代表)」49~51頁
・25人め「馬場喜信 (里山・流域紀行家)」72~74頁
の3名が取り上げられている。小林明は文中に名前が見えるのみで、ここでも手懸りは得られなかった。しかし3氏の条にはかなりの分量の記述があり、簡潔に過ぎる「はしがき」では窺い得ない編纂過程を知ることが出来る。
 ②改訂版に参加した3名では、
・30人め「光石知恵子(八王子・古文書を探る会副会長・八王子市市史編さん審議会委員)」86~88頁
のみ取り上げられていて、河津美穂子と野島和之については、やはり手懸りを得られなかった。但し光石氏の条にも②改訂版に関する記述はない。
 そして「著者の横顔」には最後の11節め、338頁6行め~339頁13行め「最後に田原さんとの出会い」に、版元かたくら書店の田原勘意との出会いと交遊が略述されている。
 まづ「八王子での出会い」から見て行こう。46頁1行め、明朝体太字でやや大きく「佐藤 広(八王子市市史編さん室長)」と題して、1行分空けて2~9行めの上15字分に、下にゴシック体で小さく「八王子市役所にて」とのキャプションを添えた、背広姿の胸から上の写真。この写真の下、本文冒頭を抜いて置こう。

 佐藤君とは三十数年の付き合いである。佐藤君が八王/子市郷土資料館に就職して間もないころ、特別展のヒヤ/リングに小泉啓一館長と私の実家に訪ねてこられたのが/最初の出会いであった。その後、本格的な信仰が始まっ/たのは昭和五十二年の「ねがい展」の調査とそれを機に/発足した「桑都民俗の会」からである。
 佐藤君は学芸員の立場で民俗分野の専門家として独自/の切り口で数々の特別展を企画し、開催してきた。また、/‥‥


 佐藤氏の経歴は詳らかにしていないが昭和25年(1950)生なので相原氏の10歳年下、昭和52年(1977)には満26~27歳、修士課程卒業としてその少し前に八王子市郷土資料館に入ったのであろう。本書執筆時点では60歳である。
 読んでいてあっと思ったのは、47頁2~3行め「‥‥。佐藤君はその後、平成四年一月、八王子市教育委員会文化財課に移り、課長として文化財行政の職務を遂行することとなる。」との件で、実は私のサークルの友人がこの頃、八王子市に就職して教育委員会文化財課に配属された。八王子車人形のイベントに招ばれて見に行ったこともある。ところが、1年ほどで辞めてしまった。ちょっとその間の事情は書き兼ねるが、彼の話に出て来た上司が、年齢からしても、どうも、佐藤氏らしいのである。その上司は彼を励まそうとしてくれたらしいのだが、どうも、逆効果だったらしい。その後、色々迷走していることは聞いていたがそのうち疎遠になり、そして昨年、ふと思い出して検索して見たら、没交渉になった頃に海外で出家して僧侶になっていたことが分かった。
 それはともかくとして、47頁14行め~48頁1行め、

 「八王子事典」の編纂は郷土資料館の利用者に役立つ情報をということから始まった作/業で馬場喜信さん、柴田隆行さんと佐藤君、それに私(小林明さんは後から参加)とで何/【47】回もの協議を重ねて進められたが、個性派揃いでなかなか意見の一致が見られなかったこ/ともある。これもお互いの立場や意見を尊重しての見解の相違の中から修練されて、八王/子事典が生み出されていったということができる。

とあって、「修練」は「収斂」ではないかと思うのだが、――『八王子事典』の編纂には、そもそも編著者たちの交流の場としての八王子市郷土資料館の存在が大きかったらしいことが、察せられるのである。(以下続稿)