瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子事典の会 編『八王子事典』(13)

・相原悦夫『春秋一会・私の人ごよみ』(4)
 一昨日からの続きで、「八王子での出会い」の25人め「馬場喜信 里山・流域紀行家)」条を見て置こう。本文冒頭(2~9行め)の上に顔写真があるのは佐藤氏や柴田氏に同じ。本文はまづ仲間内での呼称から始めて、相原氏が考えた「里山・流域紀行家」と云う肩書の由来について述べ、、

 そうした馬場さんはかたくら書店から「八王子片倉台の地誌」、「流域紀行八王子」、「峠/と路」など立て続けに出版して、地形・地誌系の分野での地位を不動のものにしている。

と見えている馬場氏の著作の内の幾つかは、今後別に取り上げる予定である。そして『八王子事典』関連の記述になる。72頁14行め~73頁3行め、

 その馬場さんとの出会いは、昭和六十二年三月、「八王子事典」の共同作業からである。/【72】かたくら書店の田原さんの発意により始められた「八王子事典」出版を進めるため、「八/王子事典の会」を発足させた。そのメンバーは当初、馬場喜信、柴田隆行、佐藤広、それ/に私と田原さんの五人である。後年、小林明さんが参加することとなる。


 2月26日付(11)に引いた「佐藤広」条では『八王子事典』編纂は八王子市「郷土資料館の利用者に役立つ情報をということから始まった作業」と云うことになっていた。メンバーは田原氏を除く4人で「(小林明さんは後から参加)」となっているのはここと合致する。田原氏の名前は『八王子事典』の①初版第1刷「編者」第2刷及び②改訂版「編著者」となっている「八王子事典の会」の連名の中に見えないが、個人事業の、地元関連の書籍ばかりを出している地方版元だから当然企画段階から深く関与していたはずで、名前がないのは版元らしく一歩引いて、手柄を全て著者連に譲ったのだろうとの見当が付けられそうである。しかしながら、この「馬場喜信」条のように含めているのと、「佐藤広」条のように含めていないのとでは、やはり、かなり印象が異なる。
 いや、この書き方だと「田原さんの発意により始められた」のは「『八王子事典』出版」に限るので、実は八王子市郷土資料館に集っていた馬場氏・柴田氏・佐藤氏・相原氏はそれ以前から『八王子事典』の編纂を、2月27日付(12)に引いた「柴田隆行」条にあるように「柴田さんと馬場さんを主要メンバーとして」進めていたのかも知れない。
 或いは、その傍証になりそうなのは、1月31日付(03)に抜いた①「はしがき」②「初版はしがき」に、「この事典を作った私たち5人」が「八王子についての簡便な事典があったらいいな,という誰いうともないつぶやきに共感し,力を合わせて作ってみようと意見が一致したのです.1985年の早春のことでした.」との記述である。尤も、この書き方だと小林氏も最初から参加したように読めるが、まぁそれは事情を細かく説明するのを省いただけだろうと思うのだけれども、とにかくこれに拠ると、昭和60年(1985)早春に仲間内で『八王子事典』編纂が決まっていたことになる。そうすると、この「馬場喜信」条の昭和62年(1987)3月と云うのはその2年後、ある程度目星の付いたところでかたくら書店・田原勘意に話を持ち込み、田原氏が承諾して正式に「八王子事典の会」を発足させて出版に向けた具体的な作業に入ったとき、と云うことになりそうである。(以下続稿)