瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

坪野鉱泉(1)

 行ったこともないし、特に興味もないのだが、これからこの話題で、ある実験を試みることになるので、それを断って置くために記事にして置いた。
 さて、私はと云えば、心霊スポット巡りには全く興味がなく、繰り返し書いているように、見えると称する人たちが夜中にそんなところに行けば、確かに「何かが見える」のだろう、くらいにしか思わない。元より廃墟巡りの趣味もない。
 だから、坪野鉱泉のことは、初めは何で知ったのか、心霊云々の興味ではなくて、未解決事件に対する興味からであったと思う。
 その、坪野鉱泉少女2名失踪事件は、実は坪野鉱泉とは何の関係もなかったのだが、解決する前にはネット上に、様々な与太記事が出ていて、あれは実は強姦殺人事件なのだと云う、妙に詳しい、まことしやかな書き込みを見た記憶がある。今からでも探せば閲覧出来るかも知れないが探す気が起こらない。
 2021年2月23日付「七人坊主(54)」に取り上げた松閣オルタ『オカルトクロニクル』では、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)による拉致事件の可能性を述べていた。
 解決の付かない事柄について、ある可能性を考えて、それを色々辻褄を合わせつつ突き進めて行くと、往々にしてあらぬ方角に突き抜けてしまう。霊能者などと云った連中は、こうした、ある解釈で押して行くプロなのではないかと思っている。
 それはともかくとして、私は昨年来度々、富山県立図書館の「郷土資料情報総合データベース」を資料検索に使っているが、昨日ふと思い立って「坪野」で検索して見た。
 富山県内で「坪野」と云う地名は婦負郡婦中町(現・富山市)や東礪波郡井波町(現・南砺市)等にもあるが、坪野鉱泉のある魚津市坪野に関する記事も少なくない。道路建設や、昭和52年(1977)に松倉小学校坪野分校が独立したものの平成24年(2012)3月で閉校してしまった魚津市立坪野小学校に関する記事に混じって、坪野鉱泉の記事も、一番新しいものは映画「牛首村」に関するものまで、幾つか拾うことが出来る。
 最も古いのは、
・「坪野鉱泉(魚津)で服毒心中 遺書6通 神戸の大学生と中年女」「北陸夕刊」昭和30年(1955)9月27日付、3頁
で、次のような記事もある。
・「坪野鉱泉でト場割れ 魚津 17人捕え、10万円押収」北日本新聞」昭和35年(1960)8月20日付夕刊、3頁
 もちろんこれらは、問題になっている廃墟より前にあった宿泊施設でのことである。
 そこで Wikipedia「坪野鉱泉」項を見るに、坪野鉱泉の開湯は明治初年で、問題の廃墟については「ホテル坪野」の節に、

営業当時
『ホテル坪野』は1970年(昭和45年)頃[9](一部資料では1973年(昭和48年) - 1974年(昭和49年)頃[5])に開業した。建物は6階建てで[5]、広さは3,300m2であった。魚津市の史跡である坪野城跡の裏に位置した[10]
廃業前は日本観光旅館、国際観光旅館に指定されており[2]、ローマ大浴場からは新川平野を一望出来た[5]。また、和風レストランシアター『寿楽園』(正面に半円形の舞台があった[5])やサパ―クラブ『ダンス天国』、そば処『山里』、喫茶店『寿楽』といった飲食店や、ワイキキプールも設置されていた[2]
廃墟
同ホテルは1982年(昭和57年)に廃業し、1993年(平成5年)までに隣接する施設は解体されたが、ホテル本体はそのまま放置されて廃墟となった[9]。以後はこの建物のみを指して「坪野鉱泉」と称されることも多い[9]

とある。開業年についての出典[9]は「“「牛首村」の舞台は富山県に実在する“坪野鉱泉”だった! 宜保愛子さんが潜入を拒否した心霊スポット”. 映画.com. (2021年11月12日) 2021年12月30日閲覧。」で、出典[5]は「『富山のいで湯』(1977年10月18日、岡田正二著、北日本新聞社出版部発行)231 - 234頁。」である。後者の方が信憑性が高そうだが「一部資料」扱いになっている。しかしこの岡田正二『富山のいで湯』は一度見てみたい。富山県立図書館に行ったら一見したい資料が沢山あって困る。それから出典[2]は「北日本新聞 1976年3月26日付朝刊8面」だが、これは「郷土資料情報総合データベース」で「坪野」で検索してもヒットしない。
 そして廃業年だが Wikipedia「坪野鉱泉」項では出典[9]を根拠にして、昭和57年(1982)としている。この廃業年は平成21年(2009)1月16日に初めて、当時は「読売新聞」平成9年(1997)5月4日付地方版「富山よみうり」の「少女不明から1年(上)廃墟に向かった2人失跡」を根拠として、書き込まれていた。
 しかしながら、この廃業年は間違いなのである。すなわち富山県立図書館「郷土資料情報総合データベース」で「坪野」で検索するに、次の記事がヒットする。
・「2年前に倒産放置 荒れ放題 魚津坪野温泉ホテル」北日本新聞」昭和57年(1982)10月7日付夕刊、7頁
 そうすると昭和55年(1980)には「倒産」していて、その後「放置」されて「2年」間「荒れ放題」だったことになる。
 さらに出典[2]の「北日本新聞 1976年3月26日付朝刊8面」には「坪の鉱泉」と出ているらしいので「郷土資料情報総合データベース」で「坪の鉱泉」でも検索して見た。すると昭和51年(1976)3月26日付の記事はヒットしなかったが、その代わりに1件だけ、
・「坪の鉱泉が破産申請」富山新聞」昭和55年(1980)5月14日付、17頁
がヒットした。私はどちらの記事も見ていないが、坪野鉱泉の廃業年は昭和57年(1982)ではなく昭和55年(1980)であったことはこの2つの記事(見出し)で確定したと云って良かろう。そして、倒産廃業直後から、廃墟化が進行していた訳である。
 そこで私は昨日から今日に掛けて、Wikipedia「坪野鉱泉」項に追加した出典[11]「『富山新聞』1980年5月14日付17面「坪の鉱泉が破産申請」より。」と出典[12]「『北日本新聞』1982年10月7日付夕刊7面「2年前に倒産放置 荒れ放題 魚津坪野温泉ホテル」より。」に基づいて、本文を「‥‥鉱泉に付随して建てられた宿泊施設『ホテル坪野』は1980年(昭和55年)に廃業し廃墟となった(後述)が、‥‥」或いは「同ホテルは1980年(昭和55年)に倒産[11][12]、‥‥」と改訂して置いた。
 現在、ネット上に坪野鉱泉を取り上げた記事が多数存しているが、その多くが廃業年を昨日までの Wikipedia「坪野鉱泉」項に基づいて「1982年」としているようである。これはブログ記事に限らない。差当り、北日本新聞社が運営している「みんなでつくる、富山親と子の知りたいWEB「conocoto (コノコト)」」の、2022.03.11「心霊スポット「坪野鉱泉」を映画の舞台に…決断した地元住民の思いとは?」を挙げて置こう。これは映画「牛首村」に関連した記事だが、やはり坪野鉱泉について「しかし1982年に旅館は倒産。‥‥」としているのである。
 冒頭に述べた私の実験と云うのは、これがどのようにして「1980年」に置き換わって行くか、と云うことなのだが、張り付いて観察するつもりもないので、気長に、気付いた折にでも当ブログにメモして置くこととしよう。
 そして、私はもう1つ、「1983年」と云う誤った解体年が Wikipedia により流布している東京都八王子市の「道了堂跡」についても、同様の実験を考えているのである。(以下続稿)