瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

朝日新聞東京本社社会部『多摩の百年』(3)

・企画の意図と時期及びスタッフ(下)
 昨日の続きで『下』について見て置こう。
 まづ『下』の章と副題を示して置く。
 1章め「機織りの歌/――老女たちの青春」3~38頁上段
 2章め「横浜往還/――夢の跡」39~56頁上段
 3章め「大資本と小資本/――勝者と敗者と」57~99頁
 4章め「鉄  路/――中央への道」100~139頁
 5章め「農民の動き/――苦難の小作群像」140~180頁上段
 6章め「社会運動/――無産者の旗を掲げて」181~204頁上段
 7章め「追われる民/――大東京の犠牲者」205~245頁上段
 8章め「桑 の 里/――市五郎の守った「自由」」246~257頁上段
 『上』に較べると内容が分りにくい。7章めは小河内ダム、8章めは砂川闘争、市五郎は青木市五郎(1900.12.11~1985.11.10)である。
 連載の時期であるが、『上』の「昭和五十一年三月」付「あとがき」に、284頁2~5行め、

 いま「多摩の百年」は、朝日新聞多摩、むさしの版紙上に第二部「絹の道」として書き継がれている。第一部「悲/劇の群像」は。日本近代の政治と思想の流れに一つの視点をすえた。「絹の道」では人々の労働と産業活動に一つの/視点を置いている。しかし、いずれにせよ描きとろうとしているのは、多摩近代民衆史であり、日本近代民衆史であ/る。民衆が置かれてきたこの百年の状況の再構成である。‥‥

とある。しかし『下』の「昭和五十一年十月」付「終わりに」には特に時期についての記述がない。
 すなわち、第一部「悲劇の群像」=『上』の連載開始は前回見たように昭和50年(1975)5月と分っているが、いつまで続いて第二部「絹の道」=『下』に引き継いだのかが分からない。『下』は、昭和51年(1976)3月に連載中だったことしか分らない。連載を切抜帖にして保存している図書館がないかと思って検索して見たが、都内・都下の公立図書館には存しないようであった。
 尤も、私の知らぬ間に朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」にて、「全国の地方版」が検索・閲覧出来るようになっていたらしい。ちなみに「聞蔵Ⅱビジュアル」は3月31日でサービス停止、3月1日から「朝日新聞クロスサーチ」としてリニューアルされているようだ。これを機に、2019年1月18日付「新聞夕刊の日付(2)」に指摘した、明治~戦前の新聞が夕刊→朝刊の順で出ていたのを「聞蔵Ⅱビジュアル」では現在と同じ朝刊→夕刊の順で収録していた誤りが修正されておれば嬉しいのだけれども。――それはともかく、図書館に出掛けてゆっくり過ごす余裕さえあれば、初出紙面と対照させることも出来る訳だ。今後の課題としたいが、やはり書籍化するときに、掲載日も入れて置いて欲しかった、と思うのである。
 そこで、連載がいつまで続いたのか、それを推測させる記述を探して見るに、8章めの最後、255頁上段11行め~257頁上段(19行め)6節め「重苦しい歴史背負う」に、254頁上段8行め「 昭和五十一年の夏の一日、市五郎は‥‥」とある。7章めは20章から成るが241頁上段17行め~243頁上段(20行め)19章め「辛苦の末に負債返す」に、243頁上段15~16行め「 五十一年六月初旬、安池さんは奥さんと連れだって久/しぶりに清里をたずねた。‥‥」とある。
 『下』のスタッフについては「終わりに」の277頁15~17行め、

 下巻の執筆には、東京本社社会部員の東雲哲哉、落合博実、岡部実各記者が当たり、次長坂本龍彦と、東条正和立/川支局長がデスクを担当しました。写真は東京本社写真部の朝居健、前田龍彦、小川満(現西部本社写真部)各記者/の撮影と筒井敏己の協力によるものです。

とある。(以下続稿)