瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(14)

朝日新聞東京本社社会部『多摩の百年』下(1)
 昨日まで、書籍の内容を確認したが、昨日示した『下』の章立てからも察せられるように、第二部「絹の道」のうち、2章め「横浜往還」が浜街道すなわち絹の道について取り上げた章である。なお、1章め「機織りの歌」には、本書の前年に刊行された辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』の四章「聞き書き・機織り唄の青春」と同じ、八王子市の北浅川流域の、機織りや養蚕に従事していた老人たちが登場する。いづれ合せて検討して見よう。いや、検討しないまでも、人名索引くらいは作って置きたい。
 もちろん本書2章め「横浜往還」に登場する鑓水の人々も『呪われたシルク・ロード』に登場する。しかしこれらの人々については『呪われたシルク・ロード』を検討する際に取り上げることとして、今回は本書に見える、道了堂の記述だけを摘記して置くこととしよう。
 1節め(39頁上段3行め~41頁上段)「統制くぐり抜け南下」は牧野正久「日本のシルクロードの究明」に基づく、絹の道の概説。
 2節め(41頁下段~43頁)「豪商を生んだ集散地」の、まづ冒頭を抜いて置こう。41頁下段2~18行め、

 八王子の市街市から約五キロ南に下ると丘陵地に行きつ/く。丘陵は関東平野の南部を低く長く横断し、奥多摩の山/なみに連なる。いま、丘陵の起伏を削りならして、人工都/市多摩ニュータウンの建設が進められているが、その西の/はずれにあるのが鑓水*1の集落だ。かつての村の四分の一ほ/どの面積は、すでにニュータウンに買収された。山間の農/村の風物詩でもあった萱ぶき屋根の家はほとんど壊され、/畑地も荒れたまま放置されている。
 その集落の真ん中を、南北に細い道が走っている。北/へ、なだらかな丘のすそを縫って、だらだらと続く坂道/は、急に険しくなり、約二メートル幅の道の両側からやぶ/が迫る。さらに約五〇〇メートルいくと、朽ちかけてはい/るが、ひなびた山村には不釣り合いな立派な石段にぶつか/る。かつて栄えた道了堂に通ずる。その石段のわきに、高/さ二メートルもある石碑が建っている。「絹の道」と刻ま/れている。
 石碑は、絹を運んだ裏街道の記念碑である。‥‥


 42頁上段左に写真「道了堂への石段わきにある「絹の道」の碑」と下にキャプション。ほぼ全体を写し背後に石段も写る。
 42頁下段9~43頁下段9行め、

 八王子から南の相州相模国に入る道は江戸時代四つあ/った。新横山村から片倉村、杉山峠(いまの御殿峠)を越え/て厚木に至る「厚木往還」。小比企村から七国峠を経て神/奈川県/津久井に通ずる「津久井往還」。上椚田*2村より上/館、大戸を通って津久井に至る「大戸往還」。それと、厚/木往還から片倉で分かれ、鑓水峠を越えて原町田につなが/る「鑓水道了堂道」だった。このあたりを実際に踏査した/北原進・立正大教授はいう。
「片倉から道了堂に上り、鑓水の谷に入り、伊丹木谷戸を/経て田端、小山に出る道了堂越えは、他よりも最も横浜に/近いルートだった」「物資を輸送する施設は御殿峠越え、/道了堂越えとも他のルートより整っているが、八王子から/のシルクロードは、道了堂越えだったと思う」と。【42】
 道了堂越えの道を、明治初年の『皇国地誌』では「神奈/川往来」といい、『神奈川県議会史』は「甲州往還」と記/している。集落の中の鑓水公会堂わきには「此方 八王子/道」と彫られた古い石の道標がある。昔の位置から一〇メ/ートルほど東に移した、というが、石柱の東面には「此方/ はら町田 神奈川 ふじさわ」、西面には「此方 はし/本 津久井 大山」とあっる。慶応元年(一八六五)に建てら/れたこの道標は、道了堂道が横浜への道であったことを、/はっきりと物語っている。


 43頁上段は「八王子市街」から南、町田市を抜けて津久井町相模原市に抜けるルートの地図で、「八王子市街」から南下して「横浜線」を渡った「片倉町」で「御殿峠」を越える「国道16号線(厚木往還)」と「鑓水道了堂道」に枝分かれするが、分岐したところから「道了堂卍」までは二重線の破線になっている。「鑓水」の地名等は他に「永泉寺卍」と「伊丹木谷戸」が記載されている。この道は「田端」で「町田街道」に合流するが、そのまま境川を渡らず神奈川・横浜に向かっているから、これを「相州(相模国)に入る道」としているのは少々そぐわない。(以下続稿)

*1:ルビ「やりみず」。

*2:ルビ「くぬぎだ」。