瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(19)

・道了堂の写真
 道了堂の写真と云うのはネット上には殆どない。道了堂跡の写真ばかりである。廃墟になる前の道了堂の写真も、見たことがない。
 撮影者本人がネットに上げているのは、八王子市上柚木2丁目の住宅街で、自宅入口脇に平屋のデザイン事務所を構えていた指田徳司(SASHIDA TOKUJI)のHP「SUB DESIGN サブデザイン*1」の「写真」のページに上がるものだけのようだ。
 この「写真」のページには、まづ「1970(昭和45年)年頃の自宅近辺の写真」として、多摩ニュータウン等の大規模開発が始まる前の八王子市上柚木の、農村生活風景を撮影した写真が纏められている。

昭和45年から50年頃の自宅近辺のスナップ写真です。
当時は自分で現像もしていたのでフィルムにしろ、印画紙にしろ適正露光でないものが多い。

との前置きがある。「100年以上」経つと云う「自宅母屋」、薪小屋や土蔵の様子、周囲の景観からして指田家は代々の古い農家で、指田氏の現住所及び「自宅から大田平方面を望む。」或いは「自宅の前の山より大田平橋方面を撮る。」とのキャプションからして、指田家の所在地は「郷戸」集落であったようだ。大栗川に架かる大田平橋の位置は現在と同じらしい。大田平は大田平橋から南大沢に向かうバス通りのある谷筋で、途中に柳沢の池がある。郷戸はその一つ西の谷筋を指すようだ。その東側の尾根筋に指田家はあったらしい。違うかも知れないが。
 「絹の道にある道了堂」も同じ頃の撮影で、

八王子から横浜まで生糸を運んだ絹の道の中継地として道了堂が栄えた
写真に凝っていてスナップ写真として、よく撮影していたので多分昭和45年から48年頃だと思う
平成22年に当時の面影を胸にいってみました。

との前置きがあって、白黒写真に平成22年(2010)撮影のカラー写真を添えて、往時と現在を対照させる構成になっている。
 「当時は荒れていて壁や床、屋根までも朽ち果て廻りは藪だらけ」とあるように、撮影は夏季であったようだ。注意されるのは、『続八王子の今昔』や『多摩の百年』の写真では、道了堂は背面も壁が落ちて柱だけになっているように見えるが、この指田氏撮影の写真では背面の穴はそんなに大きくない。側面も半ばは壁が残っている。してみると確かに、昭和49年(1974)の『続八王子の今昔』掲載写真、昭和51年(1976)刊『多摩の百年』下より前の撮影である。堂内には紙が剥がれて骨だけになった障子のようなものが写っている他にも、まだ色々なものが残っているように見える。何かは分からない。
 面白いのは「絹の道の道標ほとんど昔と変わらない」と並べて示しながら、絹の道碑の脇から道了堂へ登る石段について「当時こんな石段があったのか覚えていない。」と述べていることで、どうも、間違いようがないと思われる部分でも記憶が食い違ってしまうことは、やはり、あるものなのである。
 4基の台石の上に「〈延/命〉」以下4文字を刻んだ石柱が載り、その上に亀趺、蓮座そして子供を抱いた地蔵の座像。これは白黒写真では首が取れていて、左腕と、膝に抱いている子供と接吻するような形で、その取れた首が支えられている。これは稲川淳二の語る「首無し地蔵」そのままの状態である。カラー写真では首は修復されており、印象の違いから指田氏は「亀から下は似てるけど、地蔵本体が少し違うようだ。」とのコメントを附している。この延命児育地蔵はその後、石柱から落とされて胴体も割れ、さらにその後、修復されたが外れないようにするためか(?)縄で頭と胴体と蓮座を縛り、石柱の上には戻さず横に並べて置いているようだ。
 それから頭を木に凭せ掛けた石地蔵の立像、これは白黒写真が2枚あって少し離れた藪の中に蓮座が写っている。カラー写真の方は首が新しいものに替わっており、指田氏も「違うものか?‥‥」とコメントしている。
 上半分が折れて、残った下半分に「中神村講中」と*2ある碑は、修復されたものがカラー写真に写されており、指田氏は「どうやら欠け具合から見て、同じもののようだ。」とコメント。カラー写真はもう1つ、やはり上下に折れて修復された似たような碑の写真を添える。これは上部に「क」の種字と光背が見え、中神村講中の「永代御祈禱料」碑とは別物である。
 不思議なのは石灯籠が4基か5基、間隔を空けて並ぶ白黒写真で「この石塔はフィルムの順番からいっても同じところで、撮影しているはずだがだいぶ違う。」と指田氏がコメントする通り、カラー写真では石垣を組んだ上に立派な台石のある2基が並べてある。白黒写真には石垣がない。台石は2つあるが、石灯籠が載っているのは1基で、もう1つは上に何も載っていない。その載っていない台石の前に小さな石の手水鉢があるが、これは別の場所に移されたのか、現在、石灯籠の近くにはないようだ。いや、他の2基か3基の石灯籠はどこに行ったのだろう。石垣はいつ組まれたのだろうか。今後、他の写真を見る際に気を付けて置くこととしよう*3。(以下続稿)

*1:「ご案内」に「2021年4月1日をもちまして、廃業いたしました。」とあって、住所など連絡先、それから経歴等は示されていない。

*2:【6月21日追記】「の」と誤っていたのを「と」と訂正。

*3:6月15日追記】この写真は、子ノ神谷戸にある鑓水諏訪神社の境内にある石灯籠を撮したものであった。