瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(32)

・法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』(7)
 馬場喜信の論文、第一部「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」の「第二節 《絹の道》―その歴史的景観の発掘と史跡化」の「(2) 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」及び〔年表〕の「④ 《絹の道》史跡化への動き―行政・報道・出版など」の、昨日の続きであるが、多く挙がっている文献を一々点検する余裕がないので、今回は差当り道了堂及び大塚山公園に関連する箇所を抜き出して置くこととしたい。
 昨日の引用の続きになるが、210頁14~18行め、

 こうした状況のなかで、鑓水商人たちの遺産である大塚山道了堂の境内に残っていた唯一の本堂建築は、しだい/に荒廃して廃屋のように朽ちつつあった。当時境内を訪れた人々は、おそらくこの建物の行く末が気がかりになっ/たはずである。その再興案は、一九七八年、町田市にある宗教法人曹洞宗道了院復興仮事務局によって「八王子鑓/水道了堂復興趣意書」にまとめられた。これは墓地を造ることをふくめて寺院として再建する計画であったようで/ある。同じ頃、八王子市でも道了堂の地域を中心とした保存計画が動き始めていた。


 この頃の、廃屋と化した道了堂の写真については、これまでその幾つかを取り上げて(但し図版は掲載していない)検討した。復興計画については〔年表〕を見るに④の15条め、223頁下段14~16行めに、

一九七八年(昭和五三) 宗教法人曹洞宗道了院復興仮事/ 務局(主管河合孝順(町田市図師町))が「八王子鑓水/ 道了堂復興趣意書」をまとめる。

と見えている。河合孝順は東京行政書士会町田支部『東京行政書士会町田支部 追想三十年』にしばらくその名が見える。これは昭和36年(1961)4月から平成3年(1991)6月までの町田支部の歩みを年譜形式で纏めたものだが、「昭和五十五年四月」条に「本部代議員」7名中5番めに、「昭和五十六年五月」条にはそれに加えて「支部監察員」としてその名が見える。「昭和五十七年五月」条になると「支部監察員」のみ、「昭和五十八年五月」条に「監察支部協力員」のみ、「昭和五十九年五月」条に再任されているが以後は見当たらない。
 道了堂は元々鑓水の曹洞宗永泉寺の別院として創建されたのが大正期に独立したもので、宗派は曹洞宗と云うことになる。この創建から独立までの経緯は辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』を検討する際に触れることになると思う。Wikipedia「道了堂跡」の脚注に挙がっている東京都生活文化局「東京都宗教法人名簿(令和2年12月31日現在)」はリンク切れになっているが、「東京都宗教法人名簿(令和3年12月31日現在)」を見るに176頁16行めに見えている。記載内容は各頁1行めに出ているのでそれと合わせて整理して見ると、系統名「仏教系」包括団体名称「曹洞宗」認証番号「3831」法人名称「大岳寺」事務所〒「192-0375」事務所所在地「八王子市鑓水411」代表役員氏名「小倉 利博」電話番号(略) 設立登記年月日「S29.3.6」として登記されていることになる。鑓水411番地は堂守老婆殺しの新聞記事に出ている道了堂の所在地なので、現在住居等の建物は存在しないはずで、八王子市が買収して大塚山公園として整備したはずだから、今後の再建等もないはずである。しかし代表役員も電話番号も載っている。固定電話で番号は確かに八王子市、他の由木地区の寺院と上7桁が一致する。とにかく検索して見るに、八王子市下柚木の名刹・永林寺と同じ番号であった。下柚木永林寺は鑓水永泉寺の本寺で、代表役員(住職)は「小倉 英利」である。同居しているとすれば親子であろうか。
 設立登記は昭和29年(1954)3月6日で堂守老婆殺しの10年近く前である。河合氏については行政書士であったことの他、何も分からない。僧籍にあったのか、それとも何らかの縁で預かっていただけなのか、とにかく復興計画は実現しなかった。そして再建の見込みのないまま、元の本寺(永泉寺)の本寺である永林寺が宗教法人格を引き継いでいる。道了堂には檀家はないはずだが、堂守一家の墓石があるからその管理をしているのであろう。(以下続稿)