瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(37)

・かたくら書店新書23『峠と路』(3)
 「あとがき」の後半は連載時の担当者に対する謝辞である。すなわち164頁3行め「 本書第一部については、東京新聞ショッパー社の斉藤康子氏にお世話になりました。‥‥」とあり、8行め「 本書第二部については、多摩文化ニュースの中村甲太郎氏にお世話になりました。‥‥」とある。
 当時の馬場喜信はこのような連載を2つも抱えており、まさに、2月28日付「八王子事典の会 編『八王子事典』(13)」に引いた相原悦夫の評にあった、「里山・流域紀行作家」としての「地位を不動のものとし」つつあったことがよく分かる。そしてこの馬場氏の活躍が刺激になって、八王子事典の会 編著『八王子事典』編纂の機運が高まって来ることもよく理解出来る。そして『八王子事典』の地理・地誌関係の項目は馬場氏が担当したであろうことも。
 それはともかく、記事の題にしている道了堂についての記述だが、第一部は「東京新聞ショッパー」八王子・日野版の連載で新書判2頁分、第二部は「多摩文化ニュース」の連載で新書判5頁分と限られた紙幅なので細かい記述はない。4月16日付(35)にキャプションを抜いて置いた通り第一部の「③ 鑓水峠」の写真は「道了堂から鑓水へと下る峠道」なのだけれども*1、本文では7頁1~3行め、

 現在、峠の北半の道は大半がニュータウンの家並みのなかに没している。峠から道了堂前をす/ぎて鑓水へ下り、大栗川を渡ってさらに南の伊丹木谷戸に入り小山町へと越える道が、今も歩く/にふさわしい峠道である。

と云う形で触れてあるに過ぎない。なお〔第三刷への補記〕の1条め、1頁め4~5行めに、

七頁二行目 「南の伊丹木谷戸に入り小山町へと越える道」は、多摩ニュータウンの建設によっ/ て新市街地化したなかに取り込まれて、往時の面影はなくなった。

と現状が追記されている。実は追記は本文にもあって、7頁4~7行め、

(昭和六十年に開通した国道16号線のバイパスがこの峠の西側直下を駆けぬけている。バイパス/の両側には歩道が付けられているので、これを歩いてみた。車の往来はうるさいが、思いがけな/い角度からの風景が展開していて、意外/ながあった。)

と、連載が番号順だったとすればこの辺りは昭和57年(1982)夏に掲載されているはずなので、この( )で括った段落は連載から刊行までの間の変化の追記である。――⑨⑫⑬⑲にも同様の追記があるところからして、やはり掲載順に収録しているようだ。なお、①にも単純に補足すべき事項が( )の段落に追加されている。
 (54)(55)に第二部へ繋げるような形での言及があるのは、第一部の連載終了後に第二部の連載が始まった訳ではないので初出とは異なっていると思われる。
 第二部では[2]に、122頁6~9行め、

 町田市に七国峠(一二八メートル)があることはすでにふれた。現代は七国山と呼ばれている。/多摩丘陵から北東に分岐する高幡丘陵には六国台があり、この丘陵のつけ根に近い大塚山(二一/三メートル)にはかつて道了堂が栄え、十二州見晴しといわれた。高尾山頂も十二州(あるいは/十三州)見晴しと称され、景信山頂は十ヵ国を望むとされていた。

とある。やはり道了堂の現状についての記述はない。(以下続稿)

*1:写真に写っているのは市史跡「絹の道」である。