守屋龍男『多摩の低山』の記述によって、道了堂の解体が昭和61年(1986)であったことはほぼ確定出来た。
道了堂解体は昭和61年である(2)https://t.co/xKUWMNsNE0
— 瑣末亭 (@SaMaTsuTeI) 2022年5月27日
昭和63年(1988)3月刊、守屋龍男『多摩の低山』に「いまは整地されているが、昭和61年までは道了堂の廃寺が無残な姿をさらしていた」とある。
・守屋氏は昭和60年3月から #道了堂 #絹の道 を取材。
・「いま」は昭和62年末。#道了堂跡
これまでの当ブログの道了堂関係の記事は、結論が出ていない状態での文献の確認作業に終始していたので、Twitter には取り上げて来なかった。しかし、これで人目に晒しても大丈夫だろうと思って、上記の Tweet を投稿したのだが、何故か、普段よりも閲覧数が伸びない。それどころか、いつもは閲覧のある他の記事まで極端に訪問者が少なくなる。不思議なことに。全く宣伝になっておらん。
道了堂解体は昭和61年(1986)である。https://t.co/RvWbLYrl9P
— 瑣末亭 (@SaMaTsuTeI) 2022年5月24日
・昭和61年(1986)9月刊行の書籍に同年夏頃の廃墟の写真。
・昭和62年(1987)10月刊行の書籍に昭和61年11月の更地になった道了堂跡の写真
・昭和63年(1988)3月刊行の書籍に「昭和61年まであった」。#道了堂 #道了堂跡
こちらの記事に書いたのだが、5月18日に『多摩の低山』の記述を見たときには、これでは道了堂解体を昭和61年(1986)とは確定出来ないと思った。それは『多摩の低山』よりも前に、守屋龍男がその後刊行した次の本の記述を見ていたからだった。
・新ハイキング選書 第23巻『多摩100山』平成十五年四月三十日 初版発行・定価1500円・新ハイキング社・241頁・四六判並製本 いや、そもそも『多摩100山』を見て、『多摩の低山』にも何らかの記述があるだろうと思ったのであった。しかし、『多摩の低山』はその後、改訂版の『新 多摩の低山』が刊行されたため、以前はどこの図書館でも目にしたように思うのに、今やどこの図書館に行っても書棚にない。あるのは『新 多摩の低山』ばかりである。『新 多摩の低山』に大した記述のないことは、5月27日付(62)に見た通りである。『多摩の低山』は、私が学部生時代借りていた某区立図書館では既に所蔵していない。実用書で他の本よりも劣化し易いだろうし、さらに改訂版も出たのであれば、確かに除籍処分になりそうである。都内の公立図書館は2冊とも所蔵していないか、所蔵していても『新 多摩の低山』のみのところが多いようだ。地元(?)である都下の図書館では、流石に2冊とも所蔵している公立図書館が多いが、開架にあるのは『新 多摩の低山』のみのところが多いようである。――うっかり古い情報と思わずに出掛けてしまうようなことがないよう、閉架に仕舞い込まれているのであろう。
ここで、守屋氏の経歴について、『新 多摩の低山』の奥付の上、ゴシック体横組みで示されている紹介文を見て置こう。
守屋龍男
昭和15年富山県生まれ。昭和38年より東京都奥多摩の中学校に理科/教師として勤務。以来、35年間、生徒とともに自然観察や登山で奥多/摩・秩父・丹沢などの山々をほとんど歩く。平成9年退職。
所属 日本山岳会、新ハイキングクラブ会員。/ 日本動物学会、哺乳動物学会員。
著書 「多摩の低山」 「秩父の低山」 「相模の低山」 「花の低山」/ (以上、けやき出版)、「東京近辺カタクリの森を訪ねて」
この退職についてだけれども、立川市立第九中学校HPの「学校概要」の「■学校沿革」に、「平成5. 4. 1」条「第五代校長、守屋龍男着任」とあり、「平成9 . 4. 1」条「第六代校長宗像昭男着任」とあるから、平成5年度から4年間、立川市立第九中学校の校長を務め、平成9年(1997)に早期退職したもののようである。そして取り組んだのが『多摩の低山』を改訂版『新 多摩の低山』の執筆だったらしいことは、5月25日付「守屋龍男『多摩の低山』(1)」に一々挙げた取材年月から、ほぼ確実であろう。
しかし、本書刊行の頃まで処女作『多摩の低山』以来、けやき出版を中心に数年おきに続刊されていた守屋氏の著述活動(15年で8冊)は一段落ついたものか、ここ20年ほどの間では3冊、類書を自費出版で刊行しているのみのようである。(以下続稿)