瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(66)

 昨日の続き。
・羽根田正明『多摩の古道と伝説』(2)
 それでは83~90頁「第四章 鑓水峠道(埼玉道)」を細かく見て置こう。
 まづ83頁2~7行めに前置きがある。

 鑓水峠道すなわち道了堂越えの道は、別に埼玉道と呼ばれる道であって、晩年は八王子道、そし/て幕末頃から「絹の道」といわれた道である。しかし昔は鎌倉街道から別れ、町田を通り、片所―/田端―、右折して瓦尾根道の稜線に達し、鑓水―道了堂石階段―片倉―八王子―埼玉へ抜けた道であ/る。すなわち片倉のへんで前述した御殿峠越えの道と合するのである。安政の開港とともに、この鑓/水道は横浜の生糸輸出のための運搬路として使用された。徳川の末期は八日市、鑓水・横浜コースと/いわれて、生糸商人の往来はげしく、体の小さい甲州馬の背に、生糸の荷をのせて通った道である。


 少々疑問なのは「埼玉道」の呼称で、他では見ないようである。「八王子―埼玉へ抜けた」と云う説明もざっくりしている。元来「埼玉」は武蔵国埼玉郡のことで、現在の埼玉県の北東部、江戸川・古利根川の辺りである。しかし羽根田氏の指す「埼玉」は埼玉県らしく読める。それから「絹の道」の呼称は昭和32年(1957)に橋本義夫が民衆史跡建碑運動の一環として建てた「絹の道」碑がその最初、すなわち橋本義夫の命名と云うことになっているはずである。
 83頁8行め~86頁4行め「1 田端の環状列石と片所部落(町田市)」節の見出しは3行取り1字下げでやや大きい。羽根田氏が住んでいた南の町田市側から、そして『日本の環状列石』にも取り上げたであろう、田端の環状列石をメインで取り上げている。
 86頁5~13行め「2 弘法大師の通った道」は田端の弘法大師伝説を紹介する。
 87~90頁「3 鑓水商人と絹の道(八王子市)」はまづ87頁、『新編武蔵国風土記稿』の鑓水村の条を引用し、「鑓水公会堂三叉路のところ」にある道標を取り上げる。88頁は畠山重忠が謀殺される直前「「いざ鎌倉」といって向かった道路がこの埼玉道である*1」とし、それから永泉寺、子ノ神谷戸にある権現様に「大塚徳左エ門と八木下要右エ門が寄贈した立派な石灯籠がある」ことに触れ、90頁3~11行め、

‥‥。しかし、八木下家の子孫は、第二次/大戦に応召してふたたび鑓水には帰ってこなかったという。大塚五郎吉の子孫である勇氏は、いま/由木街道にのぞんだところでおそばやさんを経営している。健康的な明るいこの人は、客をそらさ/ぬ愛嬌もわきまえていて、なかなかの繁昌ぶりである。そしていま鑓水の人たちは明るい希望と新/しい多摩ニュータウンの建設に村の発展を祈って平和のために努力している。
 この絹の道の多摩丘陵の稜線に達すると鑓水峠があって、ここが道了越えの峠道のかかるところ/である。その峠のいちばん高いところに、道了堂がある。永泉寺別院大塚山大学寺道了堂という名/がそのほんとうの名前である。昭和三十九年堂守の老婆が死んでからは、荒れ放題の道了さまとな/って、あわれの一語につきる荒廃ぶりである。


「大学寺」と誤るのは『呪われたシルク・ロード』単行本に拠るものらしい。食堂を経営している大塚忢郎吉の子孫は『呪われたシルク・ロード』や『多摩の百年』にも登場していた。堂守老婆殺しは昭和38年(1963)である。
 89頁は著者手書きの略地図「道了堂越(絹の道)」で、鑓水を中心に周辺までを描く。[鑓水]では「伊丹木谷戸」「小泉家」「大塚家」「卍永泉寺」「嫁入谷戸」「八木下邸跡」が記入され、そして「供養塔」の分岐を右に行くとしばらくして破線になり「絹の道碑」と「卍道了堂」に達する。そしてさらに北上する破線は砂漠のようになっている「宅地造成地」で途切れている。
 最後の段落、12~15行め、

 絹の道は八王子市八日町から湯殿川を渡り、片倉を通ってこの道了堂峠に登ってくる。やがて、/峠を下り鑓水部落に入り、板木谷戸を抜けて、田端、小山と境川の左岸に沿って町田を経由して横/浜に向かう。このがその当時の絹の道である。しかし杉山峠道(御殿峠道)も、絹の道でもあった/ようだ。

と、羽根田氏が本書の取材を始めた頃には既に宅地造成工事で失われていたらしい片倉町方面には触れずに、これまでの本文とは逆の、八王子からのルートをざっと述べて締め括っている。やや粗い印象を受ける。
 この章の写真は85頁上の「町田市田端の環状列石の遺構」のみ。(以下続稿)

*1:畠山重忠の本拠は武蔵国男衾郡、今の埼玉県の中央、やや北西に寄った辺りである。