瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(105)

・ふるさと板木編集委員会『ふるさと板木』(1)石版画①
 明治26年(1893)の道了堂を細かく描写した石版画「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」については、3月21日付(015)以来度々言及して来た。色々な本に掲載されているが、目の粗い版に縮小したものや、他書から転載するなどしたものが殆どで、6月24日付(085)に述べたように「細部まで確認出来るようなものは1つも出回っていない」のが実情である。
 しかるに本書66頁には、小口側(右)を上に横転させたB5判で、右側の枠の上部辺りが説明文を入れるために削られているが、刻線の1本1本まで確認出来る鮮明な図版で収録されているのである。
 なお、本図の美術史上の位置付けや制作の背景などについては、従来殆ど注意されて来なかった。今後の課題であろう。同類の風景画については、芳賀明子「明治期風景銅版画をめぐって ~埼玉を描いた『博覧図』(精行社)~」(埼玉県立文書館「文書館紀要」第26号41~86頁・2013年3月26日)に詳しく、石田孝友(石田呼友・孝多・孝友・孝各舎友仙山人・呼友・春風舎呼友・冬友山人孝友・冬遊舎呼友・白龍軒呼友・白龍舎集雲・宝集舎呼友)の作品についても数多く言及しているが本図は取り上げられていない。芳賀氏の論文を精読して、取り上げられている作品を一通り眺めた上で、本図についても一応の位置付けを試みるべきであるが、今、そこに踏み込む用意も余裕もない。こういう美術品を扱う作業はどうしても物を多く見る必要があり、費用も時間も嵩むので、それこそ八王子市郷土資料館か教育委員会で、学芸員の資格のある人間が、公費で行うべき課題であろう。
 差当り私は、本書により読み得るようになった図中、枠外の文字を読んで置くこととする。
 上部には雲型で左下・右下に羽団扇を描いた横長の枠があって大きく「水鑓村木由郡摩多南國藏武/圖之内境堂了道山塚大」とある。そして図の左側枠外の上部に「明治廿六年五月 日印刷同年同月 日御届」とある。右側枠外の下部に「大塚山道了堂浅井貞心藏版」とあるのだが本書では「大」の字が説明文の最後に重なって削られている。なお、下側(小口側)枠外の右端にも小さく「印石館文尚子王八」とあったはずなのだが取られていない。
 図中の文字であるが、左下隅に「癸巳夏月/白龍軒呼友/石田真景冩」とあって[孝][多]の印を添える。この落款は浜街道脇の斜面を下った畑らしい場所にある。その上から右に掛けての幅の広い道が浜街道(絹の道)で、和服の女性が3人、帽子を被った男性が3人(1人は洋服、1人は和服)、人力車が止まっていて俥夫と女性客がいるようだがこれははっきりしない。それから子連れの女性、天秤棒を肩にした男性もいる。すなわち11人が描かれているようである。
 道了堂に上る石段はまづ7段あってしばらく石畳、そこに道了堂に向かう女性1人が描かれる。石畳の右に石碑が2つ、右側は現存する、明治13年(1880)建立の築礎碑であろう。その左に同じような形の半分くらいの高さの碑がある。石畳の左には石地蔵らしき石像と、その左に小ぶりな石碑が並ぶ。石地蔵は現存する立像であろうか。
 そこからまた石段が27段あって、その半ばを子連れの女性(少女?)が上っている。その上の石畳には壮士風の人物が、参拝を終えて下って来るところらしい。両脇にこの人物よりも長い、細い柱があって、上に硝子の箱を載せているらしい。見たところガス灯のようである。柱の部分が現存する、6月26日付(087)に見た明治15年(1882)の銘のある「灯籠の竿の部分のようなもの」もしくは「旗立台のような石の柱」なのであろう。なお右側の広場のようになったところに満開の桜、桜は築礎碑の後ろなど全山の其処此処に20本余りが満開である。そして左側の広場には女性らしき1人が立っている。
 さらに19段の石段があってその上部に1人、下っている。これを上り切ったところの左右に、石垣を組んだ上に立派な石灯籠がある。これは6月27日付(088)に見た明治23年(1890)建立の石灯籠であろう。ここから長い石畳が道了堂まで続く。少し進んだ右に石碑、これは現存する明治22年(1889)建立の「永代御祈禱料」碑であろうか。左には[墳 古]とあって、小振りな石碑が参道側に建っている。この辺りに6人ほどいる。1人は縁台のようなものに掛けている。もう少し進んだ左に、4月9日付(028)に引いた明治44年(1911)刊、島村一鴻 編『八王子案内』に「堂前に高さ數十尺の大錫杖あり」と見える大錫杖がある。その奥に[金神]碑があるがこれは6月28日付(089)に見たように明治17年(1884)建立である。
 [道了堂]の前には3人ほどいる。瓦屋根の道了堂の右側後方から真っ直ぐ、9間の屋根付きの[廊下]が[子守堂]まで下っている。道了堂の脇、廊下が下る辺りにも1人立っている。そしてこの廊下に並行して10段ほどの石段もある。子守堂の前の広場には1人立ち、子守堂の縁側に1人掛けている。子守堂は瓦屋根ではなく銅板葺のようだ。そこから短い廊下で[庫裡]に繋がっている。この廊下にも並行して、7段ほどの石段がある。この石段を下りた左側を四つ目垣で囲ってある。此処らが或いは、道了堂に多々植わっていたと云う「銘木」の植わり始めであったろうか。庫裡は茅葺で縁側の庇のみ瓦葺。庫裡の背後に銅板葺らしい[書院]があって中に人が座っている。また庫裡の縁側の先にやはり銅板葺らしい建物が附属するが、便所だろうか。いや、便所はこの建物から少し離れて、5段ほど石段ではないらしい、土の階段を下りたところにある、瓦葺の小屋かも知れない。この階段状の坂の上辺りにも、1人が立っている。
 庫裡の前の広場には2人、僧侶らしき人物と少年らしき人物が立っている。この広場の手前側に銅板葺の[納 屋]がある。そこから緩い下り坂が石段の下まで続いており、途中に1人、庫裡の方に向かう人がいる。
 この庫裡に通じる道と道了堂へ上る石段の間にも、やや急な上り坂があって、3人ほどが分散して描かれている。少し平らになっているところから、階段状(12段)の急な坂が道了堂の前の広場の隅に通じている。そこに手水舎らしき建物がある。また、庫裡の前に下る階段状の坂もある。
 子守堂の裏手の広場からは、書院の脇を下る階段状の坂、子守堂から真っ直ぐ下る階段状の坂があり、その先の森林の中にも石碑がある。
 この図の道了堂とその周辺に描かれている建物や石造物、人物は以上である。他に眺望出来る場所が書き込まれているが、これはこれでまた長くなるので次回に回す。(以下続稿)