瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(108)

・小泉二三『思い出の鑓水』
 昨日まで本書について確認して来たのは、もちろん道了堂の記述と写真があるからである。
 写真については、10月18日付「小泉二三『思い出の鑓水』(1)」に見たように、まづ「絹の道と鎌倉街道と塩の道と」の19頁上に「道 了 様」と題する正面から写した写真がある。全景を写したものではなく屋根は向拝から少し上まで、壁は落ちて柱だけになったような按配で、手前に石畳。19頁下の文章は特に道了堂に触れたものではないが、著者とこの道との関わりを述べたものとして抜いて置こう。20頁下4行めまで。

 「絹の道」については今更のべる事もな/いほど八王子にお住いの橋本義夫氏が道を/開かれて居るので余りふれたくはない。然/し八王子の萬町から刑務所のそばの道では/なく畑道がそうあるらしく片倉の駐在所の/前を東に曲り田圃のふちを南へ横浜線の無/人の踏切りを、釜貫谷戸の山のすそをぬけ/道了様の西側へ昇り岸耕地の屋根を下り石/垣のある豪商の家の前を更に通り組合の事/務所に突き当り東に折れ更に右に板木谷戸/へぬけ田端坂を上り、そして左折する道で/あったらしいのであるが現存する自動車の/通れる道ではなく曲りくねり昼尚暗い杉や/松のおひ茂った淋しい道であった。絹の道/とはいつごろ名付けたのだらうか、私の記/【19】憶では少年の頃あの道を八王子の学校へ通/ったなつかしい道であるがまだその時分に/は絹の道とは誰の口にはのぼらなかった。/それは橋本氏の著書以後の事であるらしい。/‥‥


 「岸耕地の屋根」は「尾根」の誤植だろう。「石垣のある豪商の家」は八木下要右衛門家屋敷跡である。「田端坂を上り」ではなく「下り」ではないか。ややこなれない、誤植も少なくないらしい文章であるが、独特の魅力がある。
 それから「槍研ぎ水」の31頁上に「大塚山道了様」として、少し離れてやはり正面から道了堂の全景を捉えた写真が載る。
 そして「あとがき」の33頁上段2行め~下段2行め、

 武蔵野の片隅の丘の間のひっそりとしたこの村にこゝ/十年ばかりの間に淋しく悲しい事があった。一つは道了/様のおとしさんが八十幾つかの年でやるせない悲しい死/に方をした事だった。その為に道了様は荒廃し見るかげ/もない程になってしまった。植木は心ない人々に持ち去/られ、あの珍らしい真黒な幹をした四角な竹も一本もな/くなってしまった。私の少年の頃あの峠道を五年間も八/王子の学校に行き来していて、時折寄っては色々とお話/をしお茶を御馳走になったのに。うら悲しい淋しい思い/出である。
 今一つはつい最近世間をさわがせたうら若い大学の女/子学生の余りにも悲しい重苦しいまでの死である。あの/ひなびた村で互いに肩をよせ合い乍らひっそりと生きて/来た人々にとってこの二つの事は堪えられない程の心の/【33上】重荷であったにちがいない。それ程村の人たちは素朴で/純心な美しい人たちばかりである。


 道了堂の堂守であった浅井としが殺されたのは昭和38年(1963)9月10日、そして「真黒な幹をした四角な竹」は5月23日付(60)に引いた小倉英明『私たちの由木村』に見えた「方竹」で、5月19日付(57)に引いた打越歴史研究会の下島彬の著書『野猿峠』にも「無住になってから、誰かに盗まれてしまった」云々の記述がある。しかしそれ以上に注意されるのは、ここに描かれる「道了様のおとしさん」の人柄である。――浅井としについては辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』の記述に基づいた人物像が通説となっているが、著者が八王子の東京府立織染学校に通ったのは大正8年(1919)から大正13年(1924)、満12歳から17歳までのことである。浅井としは満40歳前後、私生児を3人産んだとされる時期であるが、著者の回想にはそのような陰はない。実はもう1人、浅井としを同様に追慕する人が鑓水にはいて、非常に具体的な記述を遺している。
 そして「つい最近」の事件は本書刊行の4ヶ月前の昭和49年(1974)2月28日に被害者の屍体が鑓水で発見された、立教大学助教授の教え子殺しである。助教授が伊豆の石廊崎で一家心中したのは昭和48年(1973)9月6日で、その後行方不明の女子学生の屍体の捜索が始まったから、9月から死体が発見されるまで5ヶ月にわたって、鑓水はこの事件の渦中にあったことになる。(以下続稿)