瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

鑓水の地名(1)

 鑓水と云う地名の由来については、槍に付いた血を水で洗ったからだ、とする説が横行(!)していて、当ブログでも2018年10月10日付「閉じ込められた女子学生(07)」に引いた2ch(5ch)のスレッド「大学にまつわる怖い話」の、2004年5月28日に書き込まれた「26」番に「遣水=処刑用の刀を洗う水の意味」とあったのを抜いておりました。それから2018年10月11日付「閉じ込められた女子学生(08)」に引きましたが、同じスレッドにはこれを承けて、2004年7月3日に書き込まれた「100」番に「鑓水(遣りではありません)という地名は、血で汚れた刀や槍を池で洗い流したことから付いたようですが、その池は野猿街道と16号のぶつかったところにあったようです。」ともありました。
 私の入学した静岡県清水市立有度第二小学校から少し登ると「首塚神社」と呼んでいた神社があって、今、地図で見ると「首塚稲荷」とあって確かに赤い鳥居が幾つも並んでいた記憶がありますのでお稲荷さんだったのでしょう。その奥の森に小さな神社があったのですが、なんでそんな名前が付いたのかと云うと、「戦に負けて逃げて来た武士が、近くを流れる川で顔を洗っているところを敵に追い付かれて首を切られてしまった」からだ、と記憶します。それが神社とどう関係してくるのかは、何せ小学2年生までしかいなかったので分かりません。首塚神社は、今地図で見ると大したことのない森なのですが、小学校低学年の私の記憶では昼なお暗い鬱蒼たる森で、怖かったし、寄り道になりますから、1度ではなかったと思いますが一体何度出掛けたことでしょうか、その首を切られたと云う川に行ってみようと思って、見付けられなかった記憶があるのですが、腰が引けていて大して探さなかったのかも知れません。しかし水音は聞いたような気もするのですが、これは記憶の偽りでしょうか。この川には血流(ちながれ)川と云う物騒な名前が付いておりまして、私の家はその下流にありました。家の近くを流れる幅3mくらいで深さが2mくらいのドブ川が血流川でした。
 ですから、そう云う物騒な地名も、実際あるものだと思います。
 では、鑓水は、槍を洗った水に因んだ地名なのでしょうか。
 「大学にまつわる怖い話」の「100」番にある、地名の由来になったとされる「池」ですが、確かに東京環状線(国道16号線)に柚木街道が突き当たった西側に、2013年頃まで池がありました。今は埋め立てられて大型トラックの駐車場のようになっておりますが、八王子御殿山ゴルフ練習場の北、鑓水バス停の西に、Google ストリートビューで見ると2010年8月には鬱蒼たる雑木林・竹藪があって、航空写真で見るとその奥に池があったのです。しかしながら、Google ストリートビューの次の写真、2014年4月では綺麗に伐採された奥に、造成されたばかりと見える盛土が写っていて、どうも2014年の春先、早くても2013年の年末に埋め立てられたのではないかと思われます。しばらく放置されていたらしく2015年4月と2015年11月の写真には草木が生え始めていたのが、その次の、2017年8月の写真で現在と同じく駐車場としての利用が始まっていたことが分かります。
 この池は戦後の地形図にはしばらく記載されていたのですが、戦前にはありませんでした。昭和16年(1941)8月7日陸軍撮影の航空写真(C63-C2-33)を見ても、池は見当たりません。どうも、戦後、昭和30年(1955)頃でしょうか、東京環状線を拡幅して直線にした際に*1、この大芦谷戸の上流部を越えるところでは盛土したので、一種の堰止湖のような按配で西側、上流側に池が出来たもののようです。すなわち、昭和31年(1956)4月6日米軍撮影の航空写真(USA-M528-2-130)にはまだ池はありませんが、東京環状線が造成されたばかりの土手の上に通じている様子がよく分かります。この後、水が溜まり易くなった水田の耕作が放棄され、池になったもののようです。そして昭和43年(1968)5月9日国土地理院撮影の航空写真(MKT684X-C9-7)では、それなりの広さの池があるように見えます。
 とにかく、そんなに古い池ではない――恐らく、戦後に出来た池だのに「血で汚れた刀や槍を」洗った、と云うことになっておるのです。
 しかしながら、場所には問題があるのですけれども、この「鑓水」の地名の由来に、槍を水で洗ったからだ、とする説は、それなりに古くからあったらしいのです。(以下続稿)

*1:11月6日追記11月1日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(1)」に取り上げた『ふるさと八王子』1章め「ふるさと八王子」【3】「峠の茶店」の12頁4~5行め「‥‥。昭和三十/年に現在の国道十六号ができたが、‥‥」とある。このとき213m峰の西側、峠の茶店があった場所を越えていた御殿峠が、現在の東側に付け替えられている。