瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

鑓水の地名(2)

 この、鑓水と云う地名は「槍(の血)を洗った水」に由来する、との説は江戸時代の地誌、例えば『新編武蔵風土記稿』や、或いは明治になってからの『皇国地誌』などには見えません。私はまだ余り多くの文献を漁っておりませんので一体何処まで遡れるのか、よう分からんのですけれども、昭和36年(1961)に謄写刷で刊行された、下柚木永林寺の住職だった小倉英明(1930生)著すところの『私たちの郷土由木村』が、私の見た中では一番早い文献と云うことになります。
 この小倉英明『私たちの郷土由木村』については5月23日付「道了堂(60)」に略述して置きました。すなわち、43~64頁「㈣ 村  の  伝  説  集」には24話が集められておるのですが、3行取りの題下に伝承地が記載されていて、63頁の21話めまでは大栗川の上流(西)の「鑓水部落」から下流(東)の大塚部落まで、順を追って並べてあったのが最後の64頁のみ、短い話が3つ、しかも22話めが「別所部落」、最後の2話は「鑓水部落」と、既に取り上げられた場所が反覆されて出て来て、どうも落ち穂拾い的に追加したもののように思われるのですが、その23話め、64頁上段9行め、2字下げでやや大きく「白   水」と題して、その下に「鑓 水 部 落 」と下寄せで添えております。そして10~16行め、

 戦国時代のことです。
 小山太郎という武士が戦いに敵を追って、鑓水まで/来ました.戦いでこぼれた槍を道了堂の泉でといだと/ころ、それからというもの、ここからわき出る水は白/くにごった水になってしまったということです.
 今もこの泉の水を「とぎ水」といい、白い水がわき/出ているということです.


 不浄の物を洗ったために清水が濁った、と云う伝説は各地にあったと思います。
 現在、道了堂の周辺に泉は存在しないようです。片倉台・北野台の造成や八王子パイパスなどで地下水脈があっても枯れてしまいそうですが、それはともかく、そもそも道了堂は明治7年(1874)創建なので戦国時代には存在しませんでした。だから泉が先にあって道了堂は後から出来たことになります。しかし大塚山の鑓水側ではなかったようで、明治26年(1893)の石版画「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」に、それらしい場所は見当りません。そうすると鑓水側から見て大塚山の背後、片倉側にあったもののように思われるのです。
 それから、平安時代から鎌倉時代に掛けて、横山党の小山氏に「小山太郎」と云う人物がいたのですが時代が合いません。横山党の小山氏は和田合戦で横山党が和田義盛に与力して、共に滅んだもののようです。戦国時代の小山と云う武将と云えば下野の小山氏が想起されるところですが、この辺りに縁がありそうにありません。或いは、時代の方が間違っているのかも知れませんが、いづれにせよ、この「小山」は10月20日付「小泉二三『思い出の鑓水』(3)」に見た、鑓水の南に隣接する町田市小山町、但し現在は宅地開発された丘陵地が町田市小山ヶ丘として切り離されて鑓水との間に挟まっておりますが、とにかくその辺りを領有した土豪を想定しているようです。
 それはともかく、「槍」を研いだ「水」と云うことで、明記してありませんけれど「鑓水」の地名の由来らしい話になっていて、実際、この「槍」と「水」の由来説が近年ではややどぎつい形に変形されて流布しつつあるのです。ここでは Twitter 上で最も早いらしいものを紹介して置きましょう。鑓水中24年度卒業生bot(@yarichugraduate)の2014年1月8日20:52 の tweet に「ちなみに鑓水という名前の由来は寒村だった村で口減らし(人口減らし)に子供や老人を槍で突き殺しその血で濡れてしまった槍を洗った川があったから槍水→鑓水なんだそうよ」とあって、以後、この説をもっと断定的に述べ(別の説を紹介した上で否定するのに使ったりし)た tweet が今に至るまで散見されるのです。


 八王子市立鑓水中学校は東京都八王子市鑓水2丁目67番、板木谷戸の小泉家屋敷の東に対する尾根の突端を造成して、1998年4月1日に開校しております。鑓水中24年度卒業生は2013年3月の卒業生ですから、1997年度生と云うことになりましょうか。もちろん彼らの創出した説ではないでしょうからその元があるはずですけれども、俄には分かりません。1999年には存在していたらしく思われるのですがこれは確証を得てから報告することとしましょう。(以下続稿)