瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

東京都八王子市『ふるさと八王子』(4)

 つい半年程前であれば、本書を読んでも別に何とも思わなかったろうが、今は部分的に妙に詳しくなってしまった。
 1章め【1】「別所・長池」は近くで昔の同僚が飲食店を開いたので、何度か出掛けたことがある。都内の出身で、別に多摩丘陵には縁もゆかりもなかった人なのだが2章め【10】「別所の薬師堂」の近くに開店した。薬師堂には1度立ち寄ったことがある。妙に新しい建物だったと云う印象しかないが、本書に写真が掲載されている「薬師如来立像」諸共平成6年(1994)に火災で焼失していたのだった*1
 1章め【5】「桑の試験場」は[いま]に説明される通り、本書刊行時に既に「門ぺい」と「一本の桑の木」を残すのみとなっており、本書に述べてある以上の情報はネット上では殆ど得られない。しかしここも、先日義理の祖母の納骨のためにバスで往復、跡地の脇を通ったところで、あそこに片倉工業の栽桑試験場改め蚕桑試験場改め八王子研究所があったのかと今にして何となく感慨深く思う。祖母もやはり八王子市には何の縁もなくて、長女が死んだとき、折込チラシで何となく景色の良さそうな霊園に決めたらしいのだが、私も面識のない伯母の墓参と云うことで何度も訪れていて、今後はさらに色々観察しながらバスに乗ることになりそうだ。
 昭和5年(1930)7月に片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)が東京府南多摩郡川口村(現・東京都八王子市楢原町)に新設した栽桑試験所は、その後蚕桑試験場と改称、八王子市の広報に取り上げられる「十年前」に八王子研究所に改組され「桑の栽培研究から蚕の人工飼料の研究に切りかえ」ている。広報と同じ頃、昭和46年(1971)4月25日国土地理院撮影の航空写真(MKT711X-C6A-6)には「五ヘクタールの敷地のうち、四ヘクタールの見事な桑園」と「創立当時のままの建物」が写っているが、昭和49年(1974)12月下旬に国土地理院が撮影した航空写真では更地になっている。[いま]に「すでに北側の一角に八王子北高校が開校」とある東京都立八王子北高等学校は昭和53年(1978)4月に開校、授業は東京都立小平西高等学校で開始すると同時に校舎建設工事を始めている。そして昭和54年(1979)4月に現在の校舎で授業を始めている。そして「西側にも川口東小学校(仮称)がまもなく建つ」とあるが八王子市立松枝小学校は昭和55年(1980)4月に開校している。この松枝小学校はバスからよく見える。私は電車でもバスでも景色を眺めることにしているので、何となく名前も覚えていた。
 とにかく、多摩ニュータウン等の開発の犠牲(!)になった地域や、時勢の移り変りで今は失われてしまった産業や生活文化、維持・修復されずに経年劣化で取り壊された建物、この1冊に1970年代の八王子市の風景が凝縮されている、と云ったら言い過ぎだろうが、私にはこれが何時どのように失われて行ったのか興味がある。しかしながら、八王子市の住民ではない、1990年代になって初めて高尾山や陣馬山に行ったくらいで、近年は上記のような縁が出来て、最近何となく、道了堂跡に行ったこともないのに道了堂のことを調べているような按配の私には、当時の八王子市のことはよく分からない。『八王子事典』は頼りになるようで今一つ頼りない。だから11月2日付(2)の最後に述べたように、八王子市の事業として追跡調査をしてもらいたいと思っているのである。
 これから個々の項目に触れて行くつもりだが、ざっと読んで気付いた点を少し挙げて置く。
・71頁上段4行め「元禄五庚午天……*2」と銘文を読んでいるが元禄五年(1692)の干支は壬申。庚午は元禄三年(1690)。従って「元禄三庚午天……」とあった「三」を「五」と読み誤ったのであろう。しかし干支で訂正して欲しいところであった。
・165頁上段7行め「太田蜀山人*3」は「太田」ではなく「大田」。
 今後も何か気付いたことがあればここに追加して行くこととしよう。(以下続稿)

*1:別所の蓮生寺の薬師堂焼失のことは5月8日付「道了堂(47)」に取り上げた新全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』の増刷時の改訂で説明されており、記事にもしようかと思ったのだが実行していない。八王子事典の会 編著『八王子事典』でも、改訂版に加筆されている。私は本書で初めて「薬師如来立像」の写真を見た。ネット上にはないようである。

*2:ルビ「こう ご てん」。

*3:ルビ「しょくさんじん」。