東京都八王子市『ふるさと八王子』を通覧していて、1章め「ふるさと八王子」の、昭和47年(1972)10月1日発行の八王子市の広報に掲載された【17】「大和田河原の刑場」なる記事が、気になったのである。
記事の冒頭、40頁上段~下段7行め、
天正十八年、八王子城の落城により、城下/はさびれ、代って甲州街道沿いの現在の中心/【40上】部に新しい宿場ができ、にぎわいを見せてき/た。まちが大きくなるにつれ、悪い奴がはび/こり、犯罪の数が増えていくことは、今/も昔も変わらないようだ。当時のまちは/ずれだった大和田橋のたもと付近(現在/の紙工工場構内)にこうしたやからを処/刑する刑場ができた。‥‥
上段が2行しかなくて下段の3行めから字数が2字少なくなるのは、40頁左上に高さが2mはありそうな石碑の写真が掲出されているためである。
私が気になったのは本文の最後、41頁上段4~10行めに、
紙工工場ができてからは、大きな事故など/が多く、特に二十八日は必ずといってよいほ/ど事故がおこり、この日を安全の日に指定し/たほど。昭和二十九年に構内に慰霊碑を作り、/毎年二月二十八日と春の彼岸に大量の飲食物/をそなえて供養し始めたところ、以後事故が/メッキリ減少。
とあることで、一企業の行事ではあるけれども、市の広報・出版物に載った訳で、言わば市公認(?)の怪談みたいな扱いになっているのである。
1行分空けて、5字分2行取りで[いま]として、上段11行め~下段2行め、
毎年二月二十八日には工場の人/たちの手でお坊さんを呼び供養が/続けられている。しかし、若い人たちの間で/はこの慰霊碑のいわれを知らない人も多いと/【41上】いう。紙工工場では、「今後も供養を続けてい/くつもり」という。
と、本書刊行時の現状――本書は11月3日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(3)」に見た2版2刷の奥付にあったように昭和55年(1980)1月15日初版発行なので、昭和54年(1979)後半と見て置けば良かろう――を述べる。
ところで、本書の写真では上部の髭題目くらいしか分からないが、八王子市内を散策して撮影した様々な事物*1を写真入りの記事で紹介したサイトの「碑・石碑」に、2012.11.02「大和田刑場跡の慰霊碑」なる項があり、髭題目の下の文字も読める鮮明なカラー写真を掲出している。記事の冒頭には、
南無妙法蓮華経 法界萬霊供養塔
大本山富士本門寺四十七世日幹拝書
と独特の文字が書かれた石碑が、市内の某所にある。
これは、大和田河原の刑場跡に建っていた鎮魂の慰霊碑である。
と、まづやはり他には見当らない碑銘を紹介していることが有難い。なお、片山日幹(1900~1997.5.26)は富士山本門寺47世貫主(1943~1997)であった。
次いで『ふるさと八王子』の記事を抄録して由来を説明して、
大和田刑場跡ににあった紙工工場の跡地は、今では学生向けの/巨大マンションが建っている。
と、この正体不明の人物――仮に「hachisan.michikusa」氏*2として置こう――は『ふるさと八王子』以降の変化を述べる。これは10年後の今も変わりないようだ。(以下続稿)