瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(4)

 昨日の続きで、問題の紙工工場があった現在の八王子市大和田町6丁目1番、八王子ホテルニューグランドとカレッジタウンが建っている辺りの航空写真を、今度は工場の解体時期と思しき昭和末年から眺めて見ることとしよう。
 そうすると、昭和62年(1987)6月8日国土地理院撮影の航空写真(KT872X-C7-8)で、既に現在と同じ建物が並んでいることが分かった。「カレッジタウン入居者サポートセンター」HPの「カレッジタウン概要」には「竣工|昭和62年11月25日」とある。なお、八王子ドミトリー明秀については、不動産情報サイトには「築年月(築年数)|1988年11月(築35年)」或いは「築年月|1988年竣工」等とあるが、この写真に既に写っており、実際にはカレッジタウンと同時に建設・竣工したらしく思われる。
 そして昭和59年(1984)10月31日国土地理院撮影の航空写真(CKT841-C25-13/14)を見るに、ほぼ更地になっているが、昭和60年(1985)開業の八王子ホテルニューグランドの建設工事は既に始まっているようである。
 昭和54年(1979)12月13日国土地理院撮影の航空写真(CKT791-C27B-8等)では地形図の通り、いやそれ以上に見える巨大な建物が敷地の幅一杯に建っており、白く長い煙突が突き出て黒い影を引いている。昭和49年(1974)12月21日国土地理院撮影の航空写真(CKT7416-C32-17等)でもこの主要な棟と煙突は変わりない。昭和46年(1971)4月25日国土地理院撮影の航空写真(MKT711X-C7A-8)及び昭和43年(1968)5月9日国土地理院撮影の航空写真(MKT684X-C7-7)はモノクロで余り鮮明ではないが、主要な棟と煙突は変わらないようだ。
 昭和39年(1964)5月7日国土地理院撮影の航空写真(MKT648X-C13-6)及び昭和39年(1964)5月16日国土地理院撮影の航空写真(MKT646X-C1-6)まで遡ると、確かに主要な棟は半分くらいの幅で川寄りにあり、もう半分には3棟くらい建物が並んでいるように見える。この辺りはむしろ昭和36年(1961)8月31日国土地理院撮影の航空写真(MKT616-C1-10/11)の方が鮮明である。煙突はずっと同じ位置にあるようだ。
 それ以前は米軍撮影の写真で、昭和32年(1957)10月16日米軍撮影の航空写真(USA-M1016-R4-158)及び昭和32年(1957)10月10日米軍撮影の航空写真(USA-M1010R1-79)、昭和31年(1956)3月9日米軍撮影の航空写真(USA-M318-229)も、国土地理院撮影の航空写真と変わりないように見える。
 昭和23年(1948)9月17日米軍撮影の航空写真(USA-R1779-88/89)では、敷地の東寄りに「L」と縦書きのときの鉤括弧開きを組み合わせたような建物があるが、これは昭和30年代の写真には見当たらない。西寄り川寄りの縦書きのときの鉤括弧閉じのような形の建物は昭和30年代以降も残り、これを基に建て増しされているように見える。西寄りはこの建物以外は殆どが空地である。昭和22年(1947)11月14日米軍撮影の航空写真(USA-R556-No1-140/141)の方が鮮明に写っている。昭和21年(1946)4月9日米軍撮影の航空写真(USA-M99-A-5-58)は不鮮明だが同じ建物があるように見える。5月22日米軍撮影の航空写真はより不鮮明である。
 昭和19年(1944)12月21日陸軍撮影の航空写真(94C7-C15-235/236/237)はかなり鮮明で、昭和22年(1947)11月14日米軍撮影の航空写真と同じ建物がそのまま存することが分かる。すなわち空襲による施設の損傷はなかったらしいのである。陸軍は戦前にも航空写真を撮影しているが、昭和16年(1941)4月11日撮影の航空写真(C48-C1-2)、昭和15年(1940)2月16日撮影の航空写真(C0-C1-13/C0-C2-101)ともに不鮮明である。
 ――と、ここまで進めて来て、昨日検討した地形図との齟齬に気付くであろう。
 昭和23年(1948)発行の地形図まで、ここには桑畑が広がっていたはずであった。しかし航空写真を見るに、昭和39年(1964)の航空写真まであった建物が、昭和19年(1944)には既に存在していたのである。そうすると、工場は戦前には既に存在していたのに、どのような事情かは分からぬが、地形図に描き込まれていなかったことになる。
 これより前の航空写真はない。これより前の地図の閲覧も中々難しいのだが、公益財団法人たましん地域文化財団/歴史資料室「デジタルアーカイブ」を見るに、昭和17年(1942)8月の大日本航空株式会社航測所 調製「八王子市航空測量図」にはそれらしい建物がある。しかし文字の説明がない。都市計画東京地方委員会「八王子都市計畫地域指定圖」は昭和9年(1934)発行とされているが図面に年記はないようだ。しかしながら、「小宮村」の「村」が黒印で「町」と改められていることで、東京府南多摩郡小宮村が町制施行した昭和9年10月1日前後のものと判断されているらしい。これを見るに、後年の紙工工場敷地の東側、明治・大正の地形図では田圃だった辺りは大字「大和田」の「字下川原」、桑畑だった辺りが大字「上大和田」の「字上川原」で、下川原の浅川沿いにはまだ桑畑も残っており、敷地の北東隅に昭和19年や昭和22年の航空写真に写っている鉤括弧開きに似た建物に工場の記号「⛭」が打たれ、「八王子製紙工場」の文字がある。その他にも小さな建物が描き込まれている。上川原の方は桑畑で建物はない。しかし「八王子パラブ工」との赤インクの書入れがあり、後に工場の敷地となった範囲を線で囲っているようだ。この赤線は現在のカレッジタウン3号棟辺りも囲っており、どうやらこの辺りも工場の敷地だったらしい。昭和30年代までは4棟の同じくらいの大きさの建物が並んでいたが、昭和40年代に更地になって、以後は駐車場として使われていたようだ。なお、大和田橋北詰に近い角地には「所鉄装藤内」とあって、この辺は製紙工場の敷地ではなかったことが分かる。その後この辺りも製紙工場に買収されたのか、それとも最後まで別会社の所有だったのかは、変遷を追うのが困難なのでこれ以上は立ち入らないで置く。航空写真の印象では、最後まで製紙工場/紙工工場とは別の工場だったように見えるのだけれども。
 以上、ネットで閲覧出来る地図・航空写真の類では、昭和9年(1934)の「八王子製紙工場」まで遡ることが出来た。ここまで絞り込むことが出来れば、当りを付けて文献(文字情報)の検索をするのも、そう難しいことではない。但し、面倒臭いし、求める情報にすぐに辿り着ける訳でもない。(以下続稿)