瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(7)

 昨日引いた昭和十五年版『日本紙業名鑑』の疑問点だけれども、翌年に出た次の本によって粗方解消出来た。
・『日本紙業大觀』昭和十六年十一月十五日印刷・昭和十六年十一月二十日發行・定價三十五圓・紙業日日新聞社・一七+二九+図版+三二〇+一三二+四〇〇+五六+一一三+五四+四九〇頁
 内訳を述べると長くなるので八王子製紙に関連する記述だけ拾って置こう。
「著名業者内容編」は独立した頁付で四〇〇頁(扉は頁に含まれていない)、その五一頁が「八 王 子 製 紙 株 式 會 社」の紹介で、上部に写真、上右に縦長の楕円形の「氏源重來渡表代」の顔写真。豊かな黒髪を七三分けにして丸眼鏡を掛けたやや肥えた人物である。その左に横長の工場の写真、黒く写っている長い煙突には白く「八王子製紙株式會社」の文字があって、天辺からから黒煙を吐いている。この煙突の分だけ、空が広く写っている。
 これら写真の下に文字による紹介がある。上部4字分にゴシック体の項目見出しが並び、その下、1字下げで明朝体で説明がある。1行めはゴシックで大きく、3字半下げて社名、ついで2~4行め、

     東京府南多摩郡小宮町大和田八二六     (電話 八王子一一九五番)
創  業 昭和六年八月
資 本 金 十五萬圓

と、この3行は行間が詰まっている。5~7行めの3行も行間を詰めて、

抄 紙 機 丸網七五吋二臺
製  品 包装紙、仙貨紙、塵紙
販 賣 店 博進社洋紙店、愛知洋紙店、岳南商事、三陽商事各社

とあり、次の8~12行めの5行は行間を空けて、

年 産 高 四百萬封度 金八十萬圓
パルプ工場 ポケツト式一臺(碎木機馬力量三百馬力)
竣  成 昭和十五年十萬圓を投じて設備
日  産 五噸(グラウンドパルプ)
工場敷地 五千坪(内建坪三千坪)

とある。次の項目は行間を詰めて13~14行めの2行、

役  員 代表取締役渡來重源、取締役城内毅、同名古路秀一、同後藤庸視、同齋藤/     美英、監査役後藤恒太郎、同平岡平一


 前年、昭和十五年版『日本紙業名鑑』と重なるところが多いが少し違っている。まづ「渡來重源」はやはり「渡井重源」が正しい。それから取締役の「名古路角次郎」が名古路秀一に、監査役の「平岡一造」が平岡平一と、それぞれ同姓の人物に代わっている。後者には手懸りがなかったが前者は本書中に記述があったので後述しよう。他に取締役が1人増えていることと相談役がなくなっていることが注意される。齋藤美英は「齊藤」が正しく、後述するように大昭和製紙(現・日本製紙)の創業者・齋藤知一郎(1889.3.18~1961.2.16)の長男で後に大昭和製紙名誉会長になる齊藤了英(1916.4.17~1996.3.30)である。
 15行めは前後行間を空けて「從 業 員 七十名」とあって、16~22行めは行間を詰めて「沿  革 」で以下のようにある。

同社は昭和六年の創立に係り、爾来淵江源治氏(八王子市會議員)が常務/取締役として鋭意經營の任に當り居たるも昭和十四年十二月に至り大昭和/製紙系の手に依つて株式大轉換(買收)が行はれ遂に實權は完全に大昭和/製紙系の手に歸し同時に重役を始め總てに根本的改革、刷新を斷行即ち大/昭和製紙を代表して渡來重源氏が代表取締役に就任以下夫れ%\變更、一/方、資本金は從來十萬圓の所十五萬圓に増資し内容擴充強化設備の改善を/圖つて面目を一新するに至つた。


 そして最後の「幹部閲歴 」に23~26行め、

代表取締役渡來重源氏は靜岡縣富士郡富丘村の産(明治四十二年生)大昭/和製紙會長齋藤知一郎氏の夫人の甥にして富士中學卒業直後大昭和製紙に/入社し昭和十四年十二月八王子製紙改變と同時に代表取締役に就任、爾来/經營の一線に活躍しつゝある新進有爲の材である。


 淵江氏は昭和十五年版『日本紙業名鑑』の段階では相談役に留まっていたものの、その後、退いたようだ。但し「著名業者内容編」二四三~二四四頁9行め「東 部 機 械 製 紙 工 業 組 合」には、二四三頁8行めに理事として「淵江 源治  (八王子製紙)」の名が見える。19行め~二四四頁9行め「昭和十六年上半期末の組合員」を列挙した中に二四四頁3行め「八王子製紙(渡井重源)」とある。渡井氏が若くして代表取締役になったのは大昭和製紙経営者の一族だったからなのである。
 なお「著名業者内容編」一三六~一三七頁1行め「三陽商店 城 内 毅 商 店」には一三六頁上右に楕円の城内氏の顔写真、6行め「取 引 先 大昭和製紙代理店、川崎製紙及八王子製紙會社製品一手販賣」とあり、15行め「幹部閲歴 代表者城内毅氏(明治三十二年生)は靜岡縣富士郡抽野村の出身/‥‥」とある。また「著名業者内容編」一八七~一八八頁5行め「第 一 商 事 有 限 會 社」の紹介には、一八七頁右上に楕円の「氏郎治角路古名故」の顔写真を掲出、一八八頁右上にはやはり楕円の顔写真「氏 市 秀 路 古 名」が掲出される。9~14行め「沿  革 」に「同店は明治四十年先代名古路角治郎氏(岐阜縣武藝郡上收村の産)の/創業に係り爾来非常に活躍し同店今日の基礎を築き上げた立志傳中の/人、都下原料界の重鎭たりしが昭和十四年八月死去に依り、養子名古/路秀市氏が之を繼承し‥‥」云々とあり、15行め以下「幹部閲歴 」に「代表取締役名古路秀市氏は岐阜縣武藝郡武藝村一色の産、(明治四十/年五月二日生)十六歳の時上京し‥‥」云々とある。
 それから「名 鑑 篇其二/全 國 機 械 製 紙 工 塲 名 鑑」の九頁下段16行めに「八 王 子 製 紙〈株式會社〉」とあって、17行め~一〇頁上段10行め、

所在地東京府南多摩郡小宮町大和田八二/  六(電話―八王子一一九五)
創 立
幹 部代表取締役―渡井重源、取締役―/【九】  後藤庸視、武田毅、名古路角治郎、齋藤美/  英、監査役―後藤恒太郎、平岡市三
 現勢一斑
 資本金―十五萬圓
 製 品―仙貨紙、紙紐原紙、塵紙、包装紙/   半紙、川表紙
 設 備―抄紙機丸網七五吋二臺
 年産高―一千萬封度、二五〇萬圓
 工 場―敷地五千坪、建坪四千坪
 從業員―八〇名

とある。どうも、人名など記載内容に、少々不安があるのだけれども。(以下続稿)