どうも、余計な話で長くなった。
・KAWADE 道の手帖『竹中 労』(4)生年月日④
寺島珠雄「美的浮浪者の過程 ――私記・竹中労」の〔3〕「年齢と上野・浅草」の続きを見て置こう。136頁下段2~18行め、
年齢にこだわる理由はあと回しにもう少し計算してみる/と、竹中の『無頼と荊冠』(73年三笠書房)のうち「わが/青春残俠伝」にこんなことが出ている。
――おいら色の道にオクテだった⦅略⦆戦争のまっさい/中、横浜の女郎屋につれていかれたとき、アイカタの娼妓/があまりに年配に見えたので(実際は三十前だったんだろ/うが)おいらドタ靴をひっつかんでものもいわずに逃げた。/十六歳だった……
この「十六歳」は竹中自身の記憶に相違なく、満にかぞ/え直していなかろう。私は自分の習慣でそう判定する。そ/してそうでなければ平仄*1が合わないのだ・つまり竹中のか/ぞえ十六歳は「戦争のまっさい中」の一九四三・昭和十八/年、ということは一九二八・昭和三年生れなのである。も/しこれを一九三〇・昭和五年生れとしたらかぞえ十六歳に/達したのは一九四五・昭和二十年となり、その時現在なら/ともかく、戦後の文章に「戦争のまっさい中」と書くはず/がない。敗戦の年なのだ。
年齢へのこだわり、特に現代の執筆者が忘れてしまっている数え年にこだわっている辺り、こう云った点をがさつに扱う連中に大いに不満を覚えている私としては大層共鳴するのだが、「自分の習慣で‥‥はずがない」と「判定する」のは少々恣意的基準と云わざるを得ない。
ここで寺田義隆「竹中労さんのページ」に転載されている「竹中労・年譜」の、生誕の辺りを見て置こう。「1930|昭和5|0歳」条「東京・牛込区肴町で出生。父・英太郎、母・八重子の長男。戦災後復活した戸籍では「30年5月30日出生」だが、旧制中学校在籍簿には「28年3月30日」とある。名ははじめ「乱」後「労」。「父親がアナキズムからボルシェヴィズムに転向したゆえ」という。家庭の事情で転居転校4度、小学校5年次に品川区立会川へ移り鮫浜小学校卒業。高輪中学校に入学。」――1月3日付(329)に引いた本書の「竹中労略年譜」の「一九三〇年」条は、これと次の「1941|昭和16|11歳」条「平島つね子と再婚した英太郎、生母・伊津野八重子の手元から労を引き取る。」から、生母・継母の名や改名のこと、昭和3年生の可能性のあることを除いて、纏めているのだが、独自な部分がある。それは昭和5年生説を採りながら、誕生日は3月30日のままなのである。これは大きな問題を孕んで来るので、追って考えて見ることとしよう。
次の「1942|昭和17|12歳」条「立会川の鉄工場が戦時企業整備により閉鎖され英太郎とともに甲府へ疎開。山梨県立甲府中学校に転入学。」も、既に1月3日付(329)に引いた本書の「一九四二年」条に見たように、立会川の鉄工所の記述を消している。「1944|昭和19|14歳」条「学徒勤労動員で神奈川県大船の海軍燃料廠に。」と「1946|昭和21|16歳」条「東京外事専門学校(現・東京外語大)露語学科に入学。」はそのままである。
問題があるのは「1945|昭和20|15歳」条である。――「8月・大腸カタルという診断で担架にくくりつけられ大船・海軍病院から甲府へ帰る。真相は全身打撲で死線を彷徨うほどの教師の制裁。10月・甲府中学校全学ストライキを指揮、戦犯教師を追放するがみずからも退学処分になる。」
ところが本書には「一九四五年」条がないのである。
本書の副題にある「反骨のルポライター」の原点となるような出来事なのに、何故省略したのだろう?
この甲府中学校のストライキについては、日本航空労働組合の委員長だった小倉寛太郎(1930.10~2002.10.9)が晩年、平成11年(1999)11月21日に、母校の東京大学の第50回駒場祭で語っている。小倉氏は日本航空を定年退職した後、講演当時は東アフリカ研究家・自然写真家として活動していた。「1999年駒場祭講演会・小倉寛太郎「私の歩んできた道」」と「【講演資料】年譜」に拠ると、昭和5年(1930)10月生で、昭和12年(1937)神奈川県三浦郡逗子町(現・逗子市)の逗子尋常高等小学校尋常科入学、昭和18年(1943)神奈川県立湘南中学校入学、昭和20年(1945)3年生の途中、終戦前に一家で甲府に疎開し、山梨県立甲府中学校に転入している。そして戦後に「大ストライキ」を経験している。旧制中学校だから当時は5年制であった。いや、昭和18年(1943)4月1日施行の「中等学校令」で修業年限が4年に短縮されていたのが、昭和21年(1946)2月に5年に戻されている。
さて、竹中氏が①昭和3年(1928)3月生、すなわち昭和2年度生の場合は小倉氏の3学年上、②昭和5年(1930)3月生、すなわち昭和4年度生の場合は、10月生の小倉氏の1学年上である。③昭和5年5月生であれば、小倉氏と同学年で昭和20年度に3年生であった。表にして見よう。
竹中① | 竹中② | 竹中③ | 小倉 | |
15年度 | 1年生 | 5年生 | 4年生 | 4年生 |
---|---|---|---|---|
16年度 | 2年生 | 6年生 | 5年生 | 5年生 |
17年度 | 3年生 | 1年生 | 6年生 | 6年生 |
18年度 | 4年生 | 2年生 | 1年生 | 1年生 |
19年度 | 3年生 | 2年生 | 2年生 | |
20年度 | 4年生 | 3年生 | 3年生 | |
21年度 | 外専1年 | 外専1年 | 外専1年 | 4年生 |
22年度 | 5年生 | |||
23年度 | 高校1年 | |||
24年度 | 東大1年 |
①の場合、修業年限が4年に短縮されていた時期に当っており、昭和19年(1944)3月に卒業しているはずである。時局柄、留年させるようなことはまづなかったであろう。そうすると、昭和19年に学徒勤労動員に駆り出され、昭和20年(1945)に海軍共済組合病院(現・横浜栄共済病院)から甲府に戻されるなどと云ったことは、まづ有り得ない。②の場合はこの点、問題ない。3年生で県外に動員され、そして4年生だから最高学年として「全学ストライキを指揮」することにもなった訳である。③の場合が微妙である。小倉氏は昭和20年度に入ってから甲府に移っているので、昭和17年度に移った竹中氏とは、扱いが異なっていたかも知れず、参考にならない。
ここで寺島氏が「自分の習慣」で昭和18年(1943)だと断言した、『無頼と荊冠』に見える「横浜の女郎屋」の一件に戻ろう。これは、昭和19~20年の、神奈川県横浜市戸塚区(現・横浜市栄区)の第一海軍燃料廠*2に動員されていた時期のことと考えるのが適当だろう。当時、山田風太郎『戦中派虫けら日記』等からも窺われるように、自由な旅行などはまづ出来なくなっていたから、甲府中学の生徒が横浜に行くにはそれなりの理由があったはずである。①の場合、それが思い浮かばない。②③であれば、大船に動員中、休暇に誘われたかして、横浜の遊郭に出掛けたとの筋が容易に引ける。「戦争のまっさい中」は、単に終戦前と取って置けば良かろう。昭和20年に数えで十六歳になってから、そして5月29日の横浜大空襲より前に、真金町遊郭に行ったのだ、と。②の場合は昭和20年3月30日に満15歳になる前後、③の場合は5月30日に満15歳になる前に、女郎屋に入ったことになる。
と、否定して置いてナンなのだけれども、寺島氏が年齢にこだわった理由を見て置こう。136頁下段19行め~137頁上段4行め、
‥‥七八年/の、前にも一部引いた竹中の文章「風の街にて」に次のと/ころがある。
――⦅初会⦆いらいずっと十年間、寺島と会えば即座に/酒である。一つ釜ヶ崎を焼くか、などという相談はしたこ/とがない……
まさにこの通り、私たちは酒を飲みながらあれこれの話/をした。
そして5~19行めまで、当時語り合った話題を列挙する。途中、13行め、
右は上野関連、浅草関連談も盛った。
と一区切り付けているが「盛った」はそのままで良いのだろうか。なお「風の街にて」は134頁上段19~20行めに引用されている、21行め~下段1行め「「七八・二・二二」の/日付がある」竹中氏の文章である。
とにかく、「上野関連、浅草関連談」の話題を列挙した上で137頁上段20行め~下段3行め、
要するに焼跡闇市期の風俗回顧だが、ここに竹中の年齢/にこだわる私の理由がある。
竹中は私とほぼ同様にそんな風俗を咀嚼消化していた。*3/【上】それはかぞえで三歳しか差のない現れだった。復元戸籍の/五歳差では絶対に持てない戦後風俗への共通感覚を竹中は/持っていた。
と述べる。
と、ここまで考えて、③は成り立たないことに気付く。昭和5年(1930)5月生では、昭和17年(1942)には国民学校の6年生のはずである。中学生でないのだから、高輪中学校から甲府中学校に移るなどと云うことは不可能である。もちろん、戦前には飛び級などもあったので、現在の義務教育のように必ずしも年齢通りに入学・進級・卒業していないのだけれども。従って、本書の提示する②昭和5年(1930)3月30日生説が一番尤もらしいのだけども、難点は根拠不明で、①の月日と③の年を組み合わせて捻り出したように見えることである。
昨日も触れたように、竹中氏の①昭和3年生説は「旧制中学在籍簿」が根拠のようになっているが、それ以前からあったので、「論考」の1番め(17~21頁)に収録されている、井家上隆幸(1934.1.1~2018.1.15)の「他社の人生・仕事の追体験 ――竹中労的ルポルタージュ」は、末尾(21頁下段17行め)に「(『聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは』文庫解説・徳間文庫・85年11月刊)」とあるように「竹中労 年譜」の出る前に書かれたものだが、19頁上段12行め「 竹中労、昭和三年生まれのこの人も、‥‥」としているのである。井家上氏は白川書院で竹中氏の映画関係の著書を何冊も担当した編集者である。だから間違わないという保証はないのだが。いや、そもそも、竹中氏本人が昭和3年生を称していたから、井家上氏もそう思っていたのである。(以下続稿)