瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(335)

竹中労の赤マント体験(2)
 さて、竹中労が赤マント流言に接した時期と場所だが、①昭和3年(1928)3月生説の場合、2019年6月25日付(183)に見た田辺聖子と3日違いの生れで昭和9年(1934)4月小学校入学、昭和15年(1940)3月卒業、昭和14年(1939)2月の赤マント流言は昭和13年度の3学期だから小学5年生のときのこととなる。
 寺田義隆「竹中労さんのページ」に転載されている「竹中労・年譜」の「1930|昭和5|0歳」条「‥‥。家庭の事情で転居転校4度、小学校5年次に品川区立会川へ移り鮫浜小学校卒業。‥‥」とあるから、①の場合、現在の品川区立鮫浜小学校、当時の東京市鮫浜尋常小学校で赤マント流言に遭遇したものと、ほぼ確定出来るのである。
 しかしながら、竹中氏の父・竹中英太郎が品川区大井北浜川町*1に立会鉄工所を設立したのは昭和14年9月で、竹中氏が引き取られたのはそれ以後だと思われるので、①の可能性は低いようだ。①については「学徒勤労動員」や終戦後の「大ストライキ」から見ても、可能性は低いように思われるのである。
 ②昭和5年(1930)3月生説の場合は1月3日付(329)の最後に見たように昭和11年(1936)4月小学校入学、昭和17年(1942)3月国民学校卒業、赤マント流言に遭遇したのは小学3年生の3学期である。これでは品川区に移る前なので、東京市らしくは思われるが、何処にいたのかは分からない。昭和4年度生、小沢信男の2学年下である。
 ③昭和5年(1930)5月生説では、昭和17年(1942)の疎開前に中学生だったことにならないから無理がある。
 しかし、②昭和5年3月生説の難点は、①③と違って根拠が明確でないところである。ただ、最も無理なく色々な条件に適合してしまうのである。
 それはともかく、1月7日付(333)に引いた小沢信男「過程に奮迅の人」にあるように、竹中氏の赤マント流言の回想が記されているのは『決定版ルポライター事始』である。
ちくま文庫決定版ルポライター事始一九九九年四月二十二日 第一刷発行・一九九九年五月 二 十 日 第二刷発行・定価760円・筑摩書房・329頁

 これは竹中氏歿後に、次の本に関連稿を増補する形で刊行されたものである。
・ジャーナリスト双書⑯『ルポ・ライター事始』1981年7月1日 第1刷発行・定価 980円・日本ジャーナリスト専門学院(発売 みき書房)・226頁・四六判並製本 出来れば比較したいところだけれども余裕もないし、赤マント流言についてはちくま文庫『決定版』の、歿後の増補部分に見えるところなので初版との比較は今回はやらないで置く。
 162~169頁「宮崎勤の蝶をさがせ!」と題された文章は、169頁8行めに下寄せで(ダカーポ、’89・9・20&11・15号)と出典が示される。続いて9~14行めに小さく編集に拠る解題が附されるが、その冒頭に、

 *連載『テレビ観想』のうち二回分を合せ、計六節を四つに割った。‥‥

とある。よって掲載時そのままではない。
・162頁2行め「幼女連続殺しは世紀末的逆接である
・163頁13行め「赤マントと今田勇子
・165頁1行め「ビデオ屋は大繁盛!」
・167頁6行め「〝人の形〟をしたものに
の4つの節であるが、2節ずつで割ると3頁弱と4頁半でバランスが悪い。しかし「赤マントと今田勇子」の辺りは「ダカーポ」1989年9月20日号に載ったのだろう。巻末、271~319頁「竹中労の仕事」には、292頁下段15~16行め「『テレビ観想』四六回、八九年四月十九日~九/一年三月六日号、ダカーポ」とある。「ダカーポ」は月2回刊行なので、休刊休載などがなければ九月二十日号は第11回、十一月十五日号は第15回のはずである。しかし初出の形態が想像しづらいので余計なところに触れるのは止して置こう。今は小沢信男が注目した「赤マントと今田勇子」の1段落め(163頁14行め~164頁4行め)を抜くにとどめて置く。

 ぼくの幼年時代、「赤マントの怪人」が彷徨した。くわしくは同年輩の友である小沢信男/の著書をご覧あれ(『東京百景』、河出書房新社刊)。こ奴は決まって便所に出没し、メンス/になりたての女の子の尻を吸う。らちもない化けものだったが、ついに我が小学校にもあら/われた。キャアなんていっちゃって、女生徒たちは大恐慌、捕えてみれば酒屋のオッサン、/【163】流言蜚語に便乗し、女房の赤い腰巻きかぶって、バア! 戦時下の「風流滑稽譚*2」、と笑っ/てあい済まず懲役一年半、宮崎勤の祖型はつねに存在した。正直に告白すれば、ぼく自身、/赤マントの怪人になってみたかった。白い少女の尻をつたう血の色に、戦慄と昂憤を覚えた/ことだった。


「赤マントの怪人」の噂は、ときどき局地的に蒸し返されたようであるが、東京で「ついに我が小学校にも」と云うくらいに広まった「流言蜚語」ならば昭和14年(1939)2月下旬、と云うことになる。しかし「酒屋のオッサン」が捕まったと云う事例は見付けていない。東京市では2018年9月5日付(163)等に見たように不良狩りが行われた他、小沢氏の小説執筆の切っ掛けとなった、2013年11月3日付(013)に引いた、「讀賣新聞」だけが報じた流言を放った――しかし実は赤マント流言とは無関係だった――として逮捕された某通信社社員(小沢氏の記憶では銀行員)の例があるばかりである。この通信社社員の住所が品川区大井倉田町、現在の大井4丁目の辺りで、大井北浜川町*3から真西へ500mほど、東海道本線を越えた辺りであることが気になる。しかし昭和14年9月では、竹中氏の父・英太郎が立会鉄工所を設立する半年前、まだ竹中氏が鮫浜小学校に転入する前のことになるので、関係はないのであろう。
 竹中氏が当時東京市の何処で赤マント流言に接したのか、また、回想の内容がどこまで裏付けられるのかも検証したいところであるが、今はこれ以上追求する手懸りがない。(以下続稿)

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 以上、ちくま文庫『決定版ルポライター事始』とKAWADE道の手帖竹中労』そしてインターネットで得られる情報で一通り筋を通して見た。今後は、少しずつだが竹中英太郎竹中労の本を見て、生年月日や経歴についての情報を追加・訂正して行くこととしよう。
 寺田義隆「竹中労さんのページ」にあるメールアドレスに問合せをしてみたのだが、アドレス不明で送信出来なかった。長らく放置されているサイトではリンク先がなくなってたりする。当ブログでは気付いたときにだが、移転先のアドレスで貼り直したりしているが、サイトそのものがなくなっていることも少なくない。やはりネット上の情報の扱いは中々難しい。今は閲覧出来ても、そのうちになくなるかも知れない。
 湯村の杜 竹中英太郎記念館でも展示に際して「竹中労略年譜」を作成・掲示したようである。親族は何年何月何日生説を採っているのだろうか。当ブログを読んでもらうことになるので甚だ迷惑かも知れぬが、問合せるべきであろうか。

*1:【1月18日追記】「大井」を落としていたのを補った。

*2:ルビ「コント・ドロラテイーク」。

*3:【1月18日追記】「大井」を落としていたのを補った。