自分の人生を、その時代と絡めながら述べるには余りにもその道具立てに乏しい私には、先崎氏の環境が如何にも眩く見える。婦人参政権運動家だった母、その派出婦人会の派出婦たちの見聞、戦前の、寛永寺の鐘や東京音楽学校の歌声が聞こえて来る下谷区上野桜木町周辺の情景や人物、以て書き残すに足る。近代文芸社は自費出版の会社だと思うのだが、良くぞ書いて、出版してくれたものと思う。ただ惜しむらくは、世に知られていないことである。
紹介される人物や事件、風物についても細かく見て置きたいところであるが、両親の職業柄、また上野桜木町と云う場所柄、相当数の著名人が登場する。兄弟姉妹が著名な文化人の子供と同級生だったりする。終戦時に満16歳だった著者が会っている人、見たことがある人も決して少ない数ではない。――人名索引を作成したいところなのだけれども今回は返却期限も迫っているので、何年先になるか知らんがまたの機会を俟つこととしよう。
・著者とその家族
そこで今回は、著者とその家族について確認するに止めよう。但し母親の河本(先崎)亀子については、かなりの分量になってしまうので今回は最小限にとどめ、追って『花嵐――女たちの大正デモクラシー』と併せて確認する機会を作りたいと思っている。
・河本亀子(1897.1.18~1966.1.31)
42頁5~6行め「‥‥明治‥‥。同三〇(一八九七)年一月十八日、岡山県真庭郡勝山町*1/で生まれた。‥‥」
64頁9~10行め「 私が生まれたあとに亀子は先崎亥之吉へ入籍、先崎姓となった。しかし河本派出婦人会/の屋号は変えなかった。」
280頁12行め「 母の死は昭和四一(一九六六)年一月三一日、六十九歳、急性心不全だった。」
・河本家
42頁7~12行め、
亀子の父・河本鶴吉は同県津山地方裁判所一等書記で下級士族出身。母親ちゃうは庄屋*2/の娘だった。亀子は長女で、あと二年おきに妹と弟が生まれた。
亀子七歳未満のとき父親は病死。腹膜炎だったが当時の病名は腸満。母親は三人の幼児/をかかえて小学校の住み込み代用教員となった。まもなく亀子の妹だけが父方河本家の祖/父に預けられたが麦稈真田(むぎわらさなだひも)の工場に売られ、それを叔父(母親チ/ョウの弟)に連れもどされるという近代日本的暗黒劇の一駒もあった、という*3。【42】
70頁11~13行め「‥‥。私が覚えているのは程近くだった同潤会鶯谷ア/パートメントである。そこに叔父(母の弟)の一家が一時住んでいた。そこの前庭の池の/澄んだ水に奇麗な金魚がいたのを、ありありと思い出す。そういえば‥‥」
続いて、著者の父と兄姉妹弟を見て置こう。なお、河本・先崎家の住所については次回纏めて確認することとする。
・先崎亥之吉(1899~1979)
56頁7~11行め、
先崎亥之吉は亀子より二つ年下で、栃木県烏山町*4出身の、すこぶる*5きまじめな青年だっ/た。万屋の次男だが亀子と同様に七歳直前で父を亡くし、親戚の家に預けられ、高等小学*6/校を出てから上京、同郷人の経営する荷札会社に住み込みで働く身となったのだった。学/歴は低いが抜群の記憶力の持ち主で、なかなかの物知りだった。亥之吉は亀子に恋をし、/亀子もこたえて二人は夫婦となる。
140頁10~12行め、
なお余談だが、私の父は夢二を間近に見たことがあったそうだ。父は、母と出会う前の/大正一〇(一九二一)年前後に胸をわずらって、三浦三崎の旅館に幾度か転地療養したこ/とがあり、あるときそこに愛人お葉*7を連れた夢二が同宿していたという。
204頁13行め「私の父は、昭和一〇年代に「東桜木町会副会長」を務めていたころ、‥‥」
280頁12~13行め「‥‥。夫(つま/り私たちの父)に先立つこと十三年だった」と母の死について述べているので昭和54年(1979)歿であろう。
・兄(1925.8.31生)
62頁7行め「 おなかの子は大正一四(一九二五)年八月三一日に生まれた。‥‥」
100頁10~12行め、
その間学齢にも達しなかった私には川端康成を見た記憶はないが、私の四つ上の兄は、/断髪で和服の川端夫人・秀子さんを見かけると「ヤァイ、オカッパ!」と囃しては大急ぎ/で走り逃げたそうで、そのことを私の二つ上の姉はよく覚えていると言う。*8
256頁12行め「‥‥、開成中学(現・開成学園高校)の私の兄に/‥‥」
265頁14~15行め、東京大空襲当時「(兄は東京商大〈現・一橋大〉専門部に合格していたが数日後には赤紙〈召集令状〉が来/る)」
268頁9行め、終戦当時「 東京商大(現・一橋大)生の兄は千葉県の軍隊にいた。」
・姉/長女(1927.4.27生)
64頁6行め「 昭和二年四月二七日、亀子は長女を産んだ。」
268頁10行め、終戦当時「 第一高女(現・都立白鷗高)専攻科の姉は学校疎開で越後に、‥‥*9」
・先崎昭雄/私/次男(1929.7.14生)
42頁2行め「 昭和四(一九二九)年七月十四日、三十二歳六ヵ月の母親から私は生まれた。」
64頁8行め「 翌四(一九二九)年七月一四日に生まれた次男、それが私である。」
145頁2行め「 私は幼稚園に入ったのは昭和一〇(一九三五)年四月。」
146頁12行め「 そして翌一一(一九三六)年二月の大雪。私は六歳半ば。」13行め~147頁8行め、根岸幼稚園の回想。台東区立根岸幼稚園はHPの「園概要 >園長挨拶」によると「明治22年に根岸尋常高等小学校附属幼稚園として開園」。
148頁1行め「 四月から私は根岸小学校一年生。」2~7行め「阿部定」8~11行め「ジャピー」12行め~150頁3行め「黒ヒョウ脱走」。
92頁3行め「 私が小学二年生の昭和一二(一九三七)年には‥‥」
164頁3行め「 私はやっと八歳になりたての東京下谷根岸小学校二年生。‥‥*10」
205頁12~13行め「 小学生の私が仄かに初恋を感じていた同学年の少女の伯父さんに当たる、和田という人/が、もう一人の副会長だった。‥‥*11」
242頁12~14行め、
さて男の子の世界ばかり書いてきたが、私には二つ上の姉と二つ下の妹がいて、そして/根岸小学校では六年間(根岸幼稚園からだと七年間)変わらぬ男女共学組だったので、私/は女の子の遊びというものもよく見て覚えているつもりだ。
旧制中学には昭和17年(1942)4月に入学しているが、病気のため休学するなどして新制高校の1期生として卒業している。この間の事情は長くなりそうなので別記しよう。終戦当時のことのみ、家族と合わせて抜いて置こう。
268頁12行め~269頁1行め「 五中四年生の私は板橋の陸軍造兵廠に勤労動員中の身だったが、数日前から急に腎臓を*12/【268】患って休んでおり、医者通いだった。」
・妹/次女(1931.8.30生)
64頁11行め「 以下、昭和六(一九三一)年八月三〇日に次女、‥‥」
111頁2行め「 二つ下の妹も根岸幼稚園へ行く途中、寛永寺橋に続く寛永寺坂を‥‥」
85頁5~6行め「‥‥。ついでだが沢村貞子の卒業した府立第一高女は現・都立白鷗高校で、私の妹の出身校でもある‥‥*13」
268頁10~11行め、終戦当時「 第一高女‥‥、同高女二年生の妹も学校/疎開で信州に行っていた。」
・弟/三男(1935.1.5生)
64頁11~12行め「‥‥、昭和一〇(一九三五)年一月五日に三/男を産む。」
111頁7行め「 そういえば六つ下の幼い弟も、門前の車道の真ん中で‥‥」
224頁15行め「自分の母校」16行め「都立上野高校」*14
136頁5~7行め「‥‥。犬養/が私の母によこした手紙の一通が手もとに残っているが、完全には読めないままでいる。/また、母への為書*15の書を掛け軸に表装した一幅を弟が保管しているが、‥‥」。
3男2女5人兄妹の真ん中なので、兄姉妹弟1人ずつで混乱がない。(以下続稿)