瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

先崎昭雄『昭和初期情念史』(3)

 家族に関する記述は、特に後半は流し読みになってしまったので漏れがあるかも知れない。住所も同様で、精読した訳ではないから漏れがあろう。ただ、今後本書の内容を活用する際の指標として、拵えて置きたいのである。
・河本(先崎)家の住所
 52頁15行め「 当時、亀子は瀧野川区中里三四五番地(現・北区中里三ノ六)に住んでいた。‥‥」53頁3~4行め「‥‥。そこは田端台地の一郭、現在のJR山ノ手線・田端ト/ンネルの上に当たる。‥‥」
 61頁14行め~62頁6行め、

 亀子のおなかに亥之吉の子が宿った。それが人に気づかれ始めたところで彼女は社会局/をやめることになった。【61】
 彼女は中里の平家建ての借家から母親と亥之吉を連れて下谷区新坂本(現・台東区北上*1/野)にある二階建ての借家に移った。
 ここで亀子は派出婦人会を開業した。もともと、家を出て働く女性たちのために職と寝/場所とを同時に与えられるような事業をしてみたいというのが亀子年来の志だった。そこ/で彼女は屋号に自分の姓を冠して、「河本派出婦人会」とした。ところで亀子と先崎亥之/吉はまだ内縁の夫婦である。


 62頁9~11行め、

 河本派出婦人会は順調に伸びていった。増える派出婦を泊まらせるのに手狭となったの/で、中根岸(現・台東区根岸三丁目)の柿本病院の隣の、今までよりも少し大きな二階家/に引っ越した。*2


 64頁7行め「 昭和三年に上野桜木町(現・台東区上野桜木)へ引っ越した。」
 11頁2~4行め、

 赤んぼのときに飛行船を見た記憶がある。何歳だったのか定かではないが、当時の東京/市下谷*3区上野桜木町五〇番地の家の縁先で母かねえや*4の背中に負われながら仰ぎ見たのを/はっきりと覚えている。


 195頁14行め~197頁3行め、

 ところで大河内正敏が理科学研究所長という科学者だったことにちなんで書かせてもら/うが、私たちが上野桜木町で昭和一一(一九三六)年ごろに五〇番地から移り住んだ五一/【195】番地の家には、大河内と同時代人で互いに親密だった大物理学者・長岡*5半太郎も一時住ん/でいたことがある、ということを父が言っていた。調べてみたらそれは確かに大正一三/(一九二四)年前後のことだと分かった(藤岡由夫監修『長岡半太郎伝』朝日新聞社)。/※(大河内一八七八~一九五二、長岡一八六五~一九五〇)*6
 その木造二階建て下見板貼りペンキ塗装の典型的な明治式洋館は、大実業家・大倉喜八/郎(一八三七~一九二八)が築地の異人居留地から買い取ってここ上野桜木町五一番地*7/(現・上野桜木二ノ五一)に移築した六棟のうち四軒残った異人館の一つだった。並の日/本家屋に比べると万事が大作りだった。柱は太く天井は高く、ゆったり幅広い階段の手す/りも、踊り場からうしろ向きにまたがって滑り降りられるのが子どもには楽しく、面白か/った。
 瓦ぶき方形屋根のてっぺんが大きいこけし人形のような塔瓦で、その坊主頭にはよく鴉/がとまったり、ときには白鷺がじっと羽を休めていたりした。*8
 父がもと働いていた荷札会社の荒井社長が見に来て、「まるで政務次官でも住みそうな/家じゃないか」と感心した。何をもって政務次官なのか、言ってるほうも聴いてるほうも/よく分からなかった。
 私たちがそこに住んでいたのは戦後の昭和二三(一九四八)年一杯までだったが、家主/【196】の大倉家がそこを売りに出したとき作家・宮本百合子が見に来たがその足かけ三年後に彼/女は亡くなった。結局フランス人カンドウ神父がしばらく住んだあと壊されて、向かって/右隣の家と併せて旅館となった。 ※(昭和三〇(一九五五)年没五十八歳)*9


 209頁9行め~210頁2行め、

  同一一(一九二二)年、横山大観、下村観山らの尽力で、東京市下谷区上野桜木町四/ 四番地に住居が建つ。*10
 
 こうして平櫛田中は上野桜木町の住人となり、数年後その近くへ、私の両親たちは中根/岸から引っ越してきたのだった。
 私たちは戦後数年で同地から離れてしまったが、平櫛さんは、昭和四五(一九七〇)年/に東京都小平市へ転居するまで同地に住んでいた。*11
 約二十年間私たちは近所同士だったのだが、私の姉とその家族は、ちょうど平櫛さんが/【209】小平に転居したころ奇しくも同じ小平に住むことになった。平櫛さんは学園西町、姉は学/園東町、距離にして一キロ足らずか。そして私もまた同東町に十数年前から住んでいる。*12


 212頁12~13行め「‥‥津梁院は、上野桜木町五一番地に移る前に私たちがいた五〇番地の家の隣だったので、‥‥」
 既に見たように先崎家は、東京大空襲で被災せずに済んでいる。しかし道路を隔てた寛永寺枝院が並ぶ横町は焼失している。その記述に、私の知っている人の祖父が登場するので、これも別記しよう。
 268頁6~8行め、終戦当時のこととして、

 私の家は浦和に疎開していた。疎開といっても体だけ、親戚*13でもなんでもない赤の他人/の家の二階を借りていたのである。
 あの日、浦和にいたのは両親と、私と、六つ年下で小学五年生の弟の、四人だけだった。

とある。派出婦の誰かの実家を頼ることは出来なかったのであろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「したや く しんさかもと・たいとうく 」。

*2:ルビ「/たい/」。

*3:ルビ「したや 」。

*4:「ねえや」に傍点「ヽ」を打つ。

*5:ルビ「ながおか」。

*6:1行め「同」の右、上詰め「※」。

*7:ルビ「したみ いたば /つきじ 」。

*8:ルビ「ほうぎよう・からす/しらさぎ」。また「こけし」に傍点「ヽ」。

*9:2行め「カ」の右、上詰め「※」。なお、ソーヴール・カンドウ(1897.5.29~1955.9.28)の遺著、S・カンドウ『永遠の傑作』(昭和三十年十二月一日 初版印刷・昭和三十年十二月五日 初版発行・定 価  金二五〇円・東峰書房・253頁)246~253頁、宮本敏行「S・カンドウ小伝」には、251頁12行め「 一九四八年九月、カンドウ神父は、甥の若い神父ジャック・カンドウを伴って、日本に帰って/きた。‥‥」13行め~252頁1行め「‥‥。東京目黒の狭い日本家屋で/【251】の生活は決して快適なものではなかったが、‥‥」6行め「 三年後、文京区高田老松町の古い広い家に移った時、‥‥」とあるばかりで、上野桜木町に住んだとの記述はない。

*10:ルビ「したや /」。

*11:ルビ「/こだいら」。

*12:ルビ「く ・まち/ちよう」。

*13:ルビ「せき」。