瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

先崎昭雄『昭和初期情念史』(6)

 昭和20年(1945)3月9日夜半から10日未明までの東京大空襲のことは「第24章 東京大炎上の日」に述べてある。
 263頁8~11行め、

 その間、私の家のものは近所の人たちと共に、すぐ近くの上野寛永寺に避難していた。
 十五歳、旧制中学三年最終学期の私は、一人で家の周りをうろついた。ときどき父と兄/に出会った。頭上ではドンドンパチパチが続いているのに、私は怖くなかった。なぜだっ/たか分からない。


 先崎家は焼けずに残ったが、高射砲弾の破片が落ちてきたり、寛永寺橋からB29の墜落、そして火の海になった下町一帯を目撃したりしている。
 264頁4~9行め、

 そのさなか一度だけ恐ろしさを味わったのは、火災時の熱風の物凄さである。裏隣の家/に焼夷弾が落ちて燃え始め、急遽横隣の家との境目の隙間から裏庭に回ろうとした私は、/火ノ粉と共に襲う熱風に押し戻された。それでも、隣との境の板塀にチロチロと火が移っ/ていたのを棒でたたき消した。*1
 門前の道路を隔てた、寛永寺枝院が並ぶ一郭も、燃え始めた。
 裏手は、京成電車が通る切り通しの向こう、谷中ノ墓地に隣接する一帯が燃えていた。


 寛永寺橋から家に戻る途中では、焼夷弾の直撃を受けたらしい、人の手のひらを目撃している。
 265頁7~13行め、

 わが家の二階に昇って御霊屋の森のほうを見わたすと、青い炎がごうごうと狂い上がって/いた。その青緑色は、国宝・徳川家霊廟拝殿の銅瓦屋根が燃える炎色反応だった。*2
 すっかり明るくなった。
 焼け落ちた家の主人が一人、石塀の残骸にもたれて無念そうに泣いていた。*3
 灰と瓦礫に化してまだ白い煙をくすぶらせている、熱い焼け跡。*4
 鳥居御嶽という変わった本名で、東南アジア系言語専門の、東京外語専(現・東京外語/大)教授が、「貴重な本がいっさい焼けちゃいました」と私の兄に話していた。*5


 東京外語専は昭和19年(1944)4月26日に東京外国語学校が改称した東京外事専門学校、鳥居御嶽は忘れられた存在で少々調べるのに手間取りそうだ。
 しかし、続いて登場するのは、今でも一部では名の知られている学者である。265頁16行め~266頁11行め、

 その兄と一緒に、ゆうべまで寛永寺枝院が並んでいた横町のほうの焼け跡へ行って見た。/【265】すると、筑土鈴寛という学僧が茫然と立ちつくして泣いていた。彼が集めた万巻の書物や/文献や資料はことごとく灰の山と化し、それをオロオロと両手ですくっては泣いていた。*6
 この人はその二年後の二月一二日に四十五歳で没したという。子どもだった私の目に、/鶴のように品良く痩せた年寄りに映っていたこの人も、意外に若かったのだった。*7
「わたしは坊主のくせに国学院出身なもんですから出世はできないんですよ」と父に語っ/たことがあるそうで、寛永寺内でも、講師を務めた大正大学内でも、「異端者的な」苦労/があったかもしれない。
 筑土さんは昭和一八(一九四三)年に岩波文庫(旧版)『沙石集校註』を出していた*8(彼/自身はさせき集と読んでいたようだ)*9。没後に刊行された彼の著書には次のものが見られ/る。『宗教芸文の研究』中央公論社、『中世芸文の研究』有精堂、『筑土鈴寛著作集』せり/か書房。


 私は筑土鈴寛(1901.9.28~1947.2.12)の孫と同僚だったことがある。――神保町の、近代文学専門の古本屋が和本を買い込んでしまい、その古本屋の出版部門と縁があったらしい、筑土鈴寛の孫のYさんに話があって、私ともう1人、都内の私立高校の非常勤講師をしていた女子大の院生に声が掛かって1日では終わらなかったと思うので多分2日、神保町の古本屋の3階で、私ら3人には評価など出来ないから標題・著者・刊年・寸法と云ったところを一通り調べて一覧に纏めたことがあった。それからしばらくして、高校非常勤だった人が海外の日本語学校の講師として赴任することになり、海外は秋に始業するから2学期の途中から、例の古本屋の仕事仲間だった2人に後任を頼みたい、と云う話になったのである。
 そこで2人で分担して引き継いだのだが、Yさんは年末ぐらいから来なくなった。尤も、1人のコマを2人で分担したのだから出勤の時間は重ならないので、学校でYさんに会った記憶は殆どない。それはともかく、学校側も来なくなったことについて困っていたらしいのだが、いよいよ続けられなくなったと云うことで、3学期には私がYさんのコマも担当することになった。但し3年生の3学期で、受験する生徒は登校しないし、定期考査もなく、1月で終わりなのでそれほどの負担ではなかった。
 そんな折に、Yさんが急に来なくなった理由が判明した。――Yさんの父が死んだのである。流石、葬儀は寛永寺で盛大に行われた。やはり連絡は付かないままだったが、何人か、都合の付いた研究会の人たちと参列した。よく晴れて、寒くなかったように記憶している(が当てにはならない)。Yさんは疲れた表情をしていたが、私の顔を見ると「来てくれたんだ」と言って、少し表情を緩ませた。
 その後、本人から事情を聞くことが出来た。――父が入院を拒否したために、自宅で末期癌患者の面倒を見ることになってしまった。訪問看護も頼んでいたが、ずっといてもらう訳に行かぬので、母と自分と訪問看護の人とが交代で付きっきりになる。寝返りを打つ力もなく、床ずれのようになって痛がるので、しょっちゅう向きを変えてやらないといけない。痩せているとは云えそれなりに重いし、長さも大きさもあるので、一仕事である。
 しかも、本の出版が進行していた。これはもっと前から決まっていて、年度内に出さないといけない。そこで、父が死んでしまってから、緊張状態から解放されて疲労がどっと出たものか、高熱が出たそうなのだが、そんな状態で朦朧としながら柩の前で校正していた、と云うのである。
 そもそも本の出版の話をしたのは私で、論文を書いたのに本にする予定はないと云うので、研究成果公開のための助成制度があるはずだ、と云う話をしたのが切っ掛けだったはずである。だから、職場も同じことだし校正くらい手伝いますよ、と言ってあったのだが、結局何の手伝いもしなかったし、殆ど手にする機会もないままもう20年が経過してしまった。
 筑土鈴寛については2016年6月1日付「中学時代のノート(1)」に触れた、横山重『書物捜索』の索引を作りかけていたときに『中世藝文の研究』などでその経歴を見たことがあるが、私はどうも民俗学、特に折口信夫の学問が苦手なので、その後、筑土氏の著書を手にする機会も、やはりないままになっている。
 Yさんの母親は、先崎家の人たちを記憶しているであろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「すご/きよ//」。

*2:ルビ「お たまや /あおみどりいろ・れいびよう。がわら」。

*3:ルビ「がい」。

*4:ルビ「が れき」。

*5:ルビ「み たけ・みよう」。

*6:ルビ「つくど れいかん・ぼう・まんがん/」。

*7:ルビ「/や 」。

*8:ルビ「(しやせきしゆう)」。

*9:「さ」に傍点「ヽ」を打つ。