瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

先崎昭雄『昭和初期情念史』(7)

 本書を取り上げた目的は一応昨日の記事で達成された。また機会があれば取り上げたいと思っているが、今回は1月30日付(6)の補足と、若干の地理的考証を済ませて置こう。
 筑土鈴寛のことは「終 章 上野の森の空のかなたに」にも、274頁1~4行め、

 その裏手が、ちょうど私の家の表門斜め前に当たっていて、その一郭には寛永寺枝院が/並び、ひっそりと閑寂な塔頭横町になっていた。まっすぐ続く生け垣。瓦葺き白壁の塀。/武家屋敷風の門。いつ通っても人に出会ったことがなかった。第24章で書いた学僧筑土鈴/寛は、この横町にあった塔頭の一つの東漸院の住職だった。*1

と、暮らしていた一郭の情景とともに触れてあった。筑土氏が東漸院の住職であった時代は先崎家は上野桜木町に住んでいた時期にほぼ重なっているが、「天台宗東京教区 公式サイト」に拠ってこの時期の「東叡山寛永寺 東漸院」の沿革を見るに、

‥‥。大正4年(1915)上野桜木町9番地に移転改築しましたが、昭和20年(1945)3月10日の空襲で全焼しました。
昭和22年(1947)桜木町7番地の廃寺となった旧宝勝院建物を与えられ、その後増改築をして現在に至りました。

とあって現在の住居表示では台東区上野公園16番3号である。
 「公益財団法人特別区協議会公式ホームページ」の「所蔵資料・統計データ > デジタル古地図 > 二組の東京15区区分地図」にて閲覧出来る「東京市拾五区区分全図 第八 下谷区全図」図中の題は「〈明治二十九年/二月調査〉東亰市下谷區全圖」(明治廿九年六月二日發行・仝 三十年十一月廿九日再版・仝 三十三年十二月二十日三版・東京郵便電信局)と「番地界入東京市拾五区区分図 下谷区図」図中の題は東京遞信局編纂「東亰市下谷區」(明治四十四年九月廿五日印刷・明治四十四年九月三十日發行・大正十年九月十五日第二版印刷發行・定價金十五錢・遞信恊會)、埼玉大学教育学部教授だった谷謙二の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」そして現代の Google マップ等を参照するに、寛永寺塔頭で同じ位置にあるのは浄名院(上野桜木2丁目6番)のみだが、明治29年(1896)には現在の台東区上野桜木2丁目の全域、1丁目の墓地と台東区立上野中学校、寛永寺を除いたところにはほぼ隙間なく寛永寺塔頭が並んでいた。ところが、大正10年(1921)には殆どが町家となっている。
 先崎家が上野桜木町に移転した当初住んでいた50番地は明治29年には全域が津梁院であったが、大正10年には津梁院は線路際の1/4ほどに縮小している。その津梁院の境内であった場所に建てられた町家に移ったのである。現在の台東区上野桜木2丁目1番地の立体駐車場とその南西側が上野桜木町50番地、立体駐車場の北西は55番地だった。この50番地は東京大空襲で焼けたらしい。その後移った51番地は上野桜木2丁目4番1号の日展会館と、その裏手、上野桜木2丁目3番13号のダイユウビルと2号のボアヴェール桜木辺りである。敗戦後に米軍が撮影した航空写真等を見るに、上野桜木2丁目3番の方は更地になっているので先崎家(河本派出婦人会)は言問通りに面した日展会館の場所に焼け残っている家の、角から2軒目であったようだ。この2軒の敷地に旅館が建ち、さらに日展会館になったようだ。
 そうすると「私の家の表門斜め前」の「塔頭横町」は、現在の上野桜木町1丁目15番と14番の間の通りとその周辺で、現在は15番に養寿院が残るのみになっている。寒松院のあった辺りに津梁院が移転している。大正10年には現在の15番には他に青龍院と林光院、そして14番側には常照院・見明院・真如院・寒松院が並んでいた。東漸院は明治29年には上野桜木町16番地(現在の上野桜木1丁目1番)にあったが大正10年には「塔頭横町」に隣接する寛永寺橋の南詰に移っている。この辺りは東京大空襲で全焼したから、焼跡に立ち尽くしている筑土氏の姿は遮るものなく「塔頭横町」からも見通せたのだろう。
 先崎家の「裏手」の「京成電車が通る切り通し」は大正10年の地図にはまだない。京成電鉄本線の日暮里駅~上野公園駅(現・京成上野駅)間の延伸は昭和8年(1933)12月10日開業である。このとき、隣接する上野桜木町52番地に寛永寺坂駅が開業しているが、利用する機会がなかったものか本書には登場しない(ようだ)。
 それにしても、地図を眺めると上野桜木町と云うのは寛永寺、その塔頭、徳川家御霊屋、帝室博物館、東京音楽学校東京美術学校帝国図書館上野図書館)、上野公園、動物園、谷中霊園(谷中墓地)に囲まれた、恐ろしく恵まれた環境にあったことが分かる。
 さて、一旦本書の検討を切り上げるに際し、若干気になった点を列挙して置こう。
・14頁4行め「大正一五(一九二六)年二月二五日未明、大正天皇が」とあるが「一二月」。
・21頁2行め「翌三年一月一二日、桜島大爆発死者九千六百余人)。」そんなに死んでいない。
・26頁2行め「鬼熊の動行」は「動向」。
・53頁4行め「国枠主義者」は「国粋主義者」。
・94頁1行め「ことろ」は「ところ」。
・116頁10行め「 三月には東北三陸海岸の大津波で一、五三五人が死亡。*2」通常は行方不明者との合算を示す。
・132頁6行め「‥‥心を、」読点ぶら下げ、7行め「 あとで思って‥‥」何故か1字下げ。(以下続稿)

*1:ルビ「/たつちゆう・かわらぶ・しら/つくど れい/かん」。

*2:ルビ「おお」。