瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(345)

鈴木義昭『風のアナキスト 竹中労』(4)生年月日⑪
 昨日の続き。
 さて、鈴木氏は続く「レポート1竹中労アナキズム」にて、恐らくこの本人による「臍の緒書き」に従って、昭和3年生として竹中氏の年齢を整理する。33頁2~3行め、

 三十九歳(六七年)、「復党含みなし」の除名となるまで日本共産党に所属して精力的に活動してい/た竹中労。二十五歳(五三年)に党員資格を剥奪されるも、八年後の三十三歳(六一年)に復党、‥/‥


 また、昭和56年(1981)2月12日の対談(月刊『映画ガイド』・一九八一年五月号)で決まり、3月3日から夏に掛けて竹中氏の背中に彫られた「レポート3/刺青秘話」は、完成途上の記事(『ヘヴィスキャンダル』八一年六月創刊号)と完成直後の記事(別冊『漫画アクション』一九八一年八月十四日号)を引用、最後に鈴木氏も見ていた「竹中労を鼓舞する会」の二次会「肌絵・花和尚を観る会」の回想、その後のことが語られるが、168頁4~5行め、

 だが、五十三歳という年齢で、太腿にまでかかる刺青を入れたことは、その後の諸病併発の遠因に/なったのではないかと思う。

と、やはり昭和3年(1928)3月生説である。
 最後の「結び 桃源、いずくにありや」でも、やはり210頁16行め「『逆桃源行』が書かれた七四年、」211頁2行め「時に、四十六歳。」としていて、その『逆桃源行』に取り上げられていた立会川について、208頁17行め「 竹中労が小学校五年生から五年間、十五歳になるまでの少年時代を過ごした町・立会川。‥‥」と述べるのも、昭和18年(1943)の甲府疎開当時15歳だったと云う計算に基づいているのである。昭和3年3月生であれば小学5年生の大半が満10歳、だとすると昭和13年度に小学5年生だった勘定になってしまうのだが、――その問題点については既に触れたが、追って再説するつもりである。
 しかし、ここに収録・引用されている竹中氏本人の語りでは、前回も見たが昭和5年(1930)生らしく語っているように思われるのだ。
 最晩年、平成になってからの取材「インタビュー5美空ひばりからビートルズアナキズムへ/――昭和芸能史を語る~昭和から平成へ~」では、186頁13~17行め、天皇の戦争責任について、

――追究しようがないということですか。
竹中 そうじゃないでしょう。戦争中、戦時下においては、本当のごく少数を除いてね、そのごく少/数も牢屋の中でボケちゃったんだけど、みんな戦争に協力したし戦争責任あるんだから。俺だって、/たった十五、六の少年だったけど、海軍燃料廠でもってロケットの燃料を作ってたんだから、戦争協/力じゃなくて戦争行為をやってたんだ。


 昭和3年生であれば終戦時に満17歳、1月6日付(332)に引いたように寺島珠雄が「こだわる」数え年では十八歳である。――私には、竹中氏がときどき「昭和3年生」と云う設定を忘れて本当のところを語っているとしか思えないのである。(以下続稿)
追記】『逆桃源行』の書影を示して置こう。未見。