瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(348)

木村聖哉竹中労・無頼の哀しみ』(3)生年月日⑬
 昨日の続きで、木村氏が昭和3年(1928)生説を採用せず、昭和5年(1930)生説に従った理由を見て置こう。
 82頁1~2行め「‥‥、初めての訪沖のことは「メモ・沖縄/一九六九」に次のように記されている。」として3~9行め、前後1行分空けて1字下げで引用、そして10行め~83頁5行め、

 余は――などと気取っているが、この時、竹中さんはまだ三十九歳。大した貫禄である。
 実は竹中労の出生については〝昭和三年説〟と〝昭和五年説〟がある。旧制中学校在籍簿には/「一九二八年三月三十日」生まれとあるが、戦災後復活した戸籍では「一九三〇年五月三十日」/生まれになっているとか。
 著書の著者略歴にも「一九二八年(昭和三年)生まれ」のものと「一九三〇年(昭和五年)生/まれ」のものがあり、統一されていない。後年刊行された著書には昭和五年出生となっている。/【82】亡くなった時の新聞の死亡記事がすべて昭和五年生まれ。
 父親の竹中英太郎も生前『話の特集』誌上で「昭和五年生まれ」と明言している。生まれた当/人はわからなくても、親が長男の生まれた年月を間違うはずはない(何かの事情で故意に偽る場合は別だが)。したがって、私は常識的に〝昭和五年説〟に従う。
 それはさておき、竹中さんはいっぺんで沖縄に魅了された。‥‥


 竹中英太郎の発言は「話の特集」のどの号に載っているのだろうか。――本書で「話の特集」と竹中英太郎の関わりを述べた箇所はまづ「第四章 マルチイメージ」、これは60頁2行め~61頁3行め、

話の特集』は一九七二年一月号から一年間「マルチイメージ」という新企画を連載した。
 この企画は各界の有名人、異色人物を毎月一人取り上げ、その人物をどう思うか、その人物に/ついてどんなイメージを持っているか、いろいろな人に電話または面談して(自分で書いた人もいる)、多角的な〝人物批評〟を試みたものである。
 そのためターゲットになる人物の関係者および周辺部から毎月四〇~五〇名の人をリストアッ/プし、主として私が中心になって取材し。コメントを集めた。
 この企画(六頁)には編集者の文章、説明等は一切排除し、取り上げる人物の写真とコメント/だけを罫で囲んで羅列する方式を取った。
 どんなコメントを集めるか。そのコメントをどう配列し、どう構成するか。そこにすべてがか/かっていた。【60】
 ちなみに一月号は石原慎太郎、二月号・升田幸三、三月号・加藤諦三、四月号・花森安治、五/月号・大橋巨泉、六月号・小澤征爾、七月号・宇野重吉、八月号・美濃部亮吉、九月号・川上哲/治、十月号・荒木一郎、十一月号・竹中労、そして十二月号が赤塚不二夫だった。


 そして61頁11行め「発行責任者・矢崎泰久さんの了承を得て、当時のままそっくり再録」する。但し写真はない。13行め「マルチイメージ・11  竹中労」と題して、以下44人のコメントを並べるがその最後が、79頁8行め~80頁3行め「●竹中英太郎(父・挿絵画家)」である。
 前半は英太郎の祖父が、79頁9~10行め「‥‥、明治維新による失職、転業の安全コースを〝銭湯稼業〟に/求めた。‥‥」折のことを紹介して、14行め~80頁1行め、

 よい年をして、親のつけてくれた「労」というりっぱな名(昭和五年につけたのだぞ)を今更、/消そうなどという了見。――それも仕方ないとして、父子二代の革命への狂疾――などとオマエ/【79】は言うが、体制の象徴「金」を汚らわしいとした祖父からは四代目。‥‥

云々と続けている。
 木村氏は再録した「マルチイメージ・竹中労」について、80頁4~5行め「‥‥。各人とも竹中さんが読むことを前提にコメントを出しているにしては、ちゃ/んと言うべきことは言っている気がする。」と評しているが、この竹中英太郎のコメントは竹中労にだけ通じるような、事情の分からない者には禅問答のような印象を与えるものとなっている。
 もう1箇所は「第十章 竹中英太郎」、この章はまづ『百怪、我ガ腸ニ入ル――竹中英太郎作品譜』により竹中英太郎の略歴を記し、竹中労にとっての竹中英太郎と云う存在を考察し、そして弥生美術館での竹中英太郎回顧展で竹中労に七~八年振りに、そして最後に会ったときのことを回想しているのだが、163頁9行め~164頁2行め、

 竹中英太郎氏に私は一度だけ会ったことがある。一九七二年秋だった。
 その頃『話の特集』では「対決」というタイトルで対談シリーズを毎月連載していた。
 似顔絵の山藤章二和田誠、音楽の黛敏郎と林光、映画の山田洋次森谷司郎、演劇の寺山修/司と別役実、歌手の浅川マキと上條恒彦、テレビの今野勉田原総一朗といった具合に、各分野/で活躍する対照的な二人を選び、対談を組んでいたのである。
 その最終回が「硬骨の二人」永忠順と竹中英太郎の対談だった。
 永忠順は永六輔さんのご尊父。浅草の寺の住職らしく着物姿で、学者タイプの控えめな人だっ/た。当時七十二歳。【163】
 片や竹中英太郎は背広にネクタイ姿だったが、眼鏡の奥の眼光鋭く、古武士の風格があった。/当時六十五歳。


 この対談は「話の特集」1972年12月号(通巻82号)に掲載されている。ちなみに「マルチイメージ・11  竹中労」は「話の特集」1972年11月号(通巻81号)掲載である。164頁7~8行め、

 司会は編集長の矢崎泰久さんがやり、写真は浅井慎平さん、記録係が私だった。対談後一~二/日くらいでテープ起こしをやり、原稿を作成する役である。


 さて、竹中英太郎が長男・労が「昭和五年生まれ」だと「話の特集」誌上で明言したのだとすれば、この対談と云うことになるが、その件は本書には引用されていない。
 或いは「マルチイメージ・竹中労」の「親のつけてくれた「労」というりっぱな名(昭和五年につけたのだぞ)を今更、消そうなどという了見」なる件を指しているのかも知れない。どうも、事情に通じていないと解らないような言い回しになっているが。竹中労が自分は初め「乱」と名付けられた、と言うようになったのを窘めているかのように読める。違うかも知れぬが。そして「昭和五年につけたのだぞ」も、昭和3年生と称していることに対して意見しているように、読めるのである。(以下続稿)
2月14日追記】「マルチイメージ」の章の最後、まとめの文章の中にある年齢に関する記述を抜くのを忘れていた。ここに補って置こう。80頁7~9行め、

 この時、竹中労、四十二歳。まさに〝男盛り〟で、怖いもの知らずの時期であった。
 それ以後二十年近く生き、六十歳で世を去るのだが、竹中さんの本質的な部分については、こ/れらのコメントにほとんど言い尽くされているように思うが、どうだろうか?