瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(349)

木村聖哉竹中労・無頼の哀しみ』(4)生年月日⑭
 昨日「対決・硬骨の二人」に触れて、竹中英太郎が長男・労が「昭和五年生まれ」と明言するところは引用されていないと述べたが、この対談について述べた箇所には、なかなか興味深い記述がある。167頁9~13行め、

 「硬骨の二人」を今度読み返して気が付いたが、この対談が始まる直前に、英太郎は労と久し/ぶりに会っている。そして労の小学生の時の通信簿と労が東京外大を中退するとき英太郎宛に出/した絶縁状を返したという。
 その絶縁状には「頑固な同志・親父よ」と書いてあった。英太郎はそれを大事に保管していて、/いつか機会があれば返してやろうと思っていたらしい。


 木村氏は、この対談を契機として絶縁状を返すことで親子の和解が成った、と云った辺りに注目しているのだが、瑣事にこだわる私としては「小学生の時の通信簿」に注目したい。――常識的に考えれば引き取って一緒に暮らし始めた鮫浜小学校の通信簿であろう。ここに年度と学年が記載されているはずである。生年月日もあるだろう。竹中労事務所に保管されていないだろうか。もしこれが見付かれば、生年月日問題は直ちに解決するはずなのだが。
 それはともかくとして、前回の最初に引いた82頁10行め~83頁5行め、竹中労の生年に関する木村氏の見解のうち、竹中英太郎の発言にこだわって長くなってしまったが、それ以外のところも確認して置こう。
 旧制中学校在籍簿或いは戦災後復活した戸籍と云うのは、2月11日付(347)に見たように木村氏も「大いに参考にさせてもらった」と書いていた『竹中労・別れの音楽会』パンフレット所収「竹中 労 年譜」に拠る。当ブログでも度々言及しているが「1928(昭3)」条は1月22日付(336)に見た鈴木邦男竹中労』の引用が分かり易い。
 竹中労は初期の著書をフロンティア・ブックス(弘文堂)と云う、新書判・定価二九〇円のシリーズから4冊出している。
・65『団地 七つの大罪 近代住宅の夢と現実昭和三九年一二月三〇日 初版発行・181頁
・78『処女喪失 未婚女性の性行動
・101『美空ひばり 民衆の心をうたって二十年
・『呼び屋 その生態と興亡昭和四一年七月三〇日 初版発行・184頁
 番号は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧した『呼び屋』巻末の目録による。但し『呼び屋』はこの目録に載っていないので分からない。『美空ひばり』は国立国会図書館限定公開、『処女喪失』は国立国会図書館に所蔵されているがデジタルコレクションに含まれていない。
 それはともかく『団地 七つの大罪』の奥付上部にある著者紹介には「1928年,東京都に生まれる。東京外国語/ 大学ロシヤ語科中退後,新聞記者,雑誌/ 記者などをへて現在フリーのルポ・ラ/ イターとして活躍。著書に「呉子」ほか。」とあって「現住所」として舞台となった高根台公団住宅の住所を示す。『呼び屋』の奥付上部にある著者紹介では「1928年東京に生まれる。東京外国語大学/ロシヤ語科中退後,新聞記者,雑誌記者/などをへて,現在フリーのルポ・ライタ/ーとして活躍。」とあって「著 書」は別に2行、フロンティア・ブックスの既刊3点、そして同じ「現住所」を示している。
 確かに早い時期に刊行された著書で昭和3年生、そして2月8日付(344)に見た FOR BEGINNERS㉛『大杉栄』にように「後年刊行された著書」では昭和5年生になっているらしいのである。
 しかし、国立国会図書館デジタルコレクションの竹中氏の著書はその殆どが国立国会図書館限定公開で閲覧出来ない。都下の公立図書館にも竹中氏の生前刊行の著書は、余り所蔵されていない。今、手許に1月9日付(335)に書影を貼付したジャーナリスト双書⑯『ルポ・ライター事始』があるが、その奥付上部の「著者紹介」には、2~5行め*1

竹中 労(たけなか ろう)
1930年 東京に生まれる
東京外語学校ロシア語科中退
硬骨のルポ・ライターとして知られる

とあって、昭和56年(1981)には昭和5年生を称していた訳である。
 これで後は、公立図書館に出掛ける度毎に竹中氏の著書の「著者紹介」を確かめて、何時頃昭和5年生に切り替えたのか、見当が付けられれば良い、くらいに思っていたのだが、問題はそう簡単ではなかった。――国立国会図書館デジタルコレクションの「送信サービスで閲覧可能」になっている竹中氏の著書は他に2点、うち『呉子』は共著で著者紹介がない。

・『呉子昭和38年3月10日発行・定価 1000円・経営思潮研究会・二七二頁
 扉には「竹中 労/北川 衞/村山 孚 共訳」とあり、奥付には「訳者代表」として村山孚(1920.2.5~2011.12.1)の名前のみ。二七一~二七二頁「あ と が き」は末尾(二七二頁上段13行め)に「(村山)」とあるが、二七二頁上段7~10行め、

 なお、執筆は共同研究を重ねた上で、直訳を村/山、呉子伝を竹中、太平洋戦争の事例を北川が分/担して執筆、これを村山がとりまとめたものであ/る。

とあり、3~4頁(頁付なし)経営思潮研究会代表生出寿「は し が き」には、3頁10~11行め「‥‥、中国文学/研究家、歴史家、戦史研究家三氏の共同研究による『呉子』をおおくりするゆえんのものは、‥‥」とあるが、北川氏が戦史研究家なのだろうから竹中氏は「歴史家」と云うことになっているようだ。
・『タレント帝国―芸能プロの内幕―昭和43年7月20日発行 ©・定 価 四六〇円・現代書房・277頁
 本書も奥付の上に横組みの<著者紹介>があるのだが、2~6行め、

昭和4年東京生れ。東京外語大ロシア語科中/退。以後十数種の職業を転々。昭和33年「女性/自身」専属ライターとなり教養・芸能欄を担/当。昭和40年中国・東南アジア旅行を機会にフ/リーとなる。昭和42年12月キューバ訪問。‥‥


 以下9行めまで著書8点を挙げる。
 それはともかく、ここには昭和4年(1929)生とある。――私も木村氏と同じく昭和5年生説を採っているのだけれども、昭和5年5月30日生説では実は具合が悪いので、昭和5年の早生れ、すなわち昭和4年度の生れと見ているのである。そうすると、この「昭和4年東京生れ」は魅力的でる。私が集め、重要視している根拠の多くは昭和3年生説、或いは昭和5年度生説に矛盾する。しかし昭和4年生であれば――昭和4年度生であれば、これに矛盾しない。
 いや、そこで改めて、上記「小学生の時の通信簿」を何とかして閲覧出来ないものか、と思うのである。(以下続稿)

*1:6~8行め「主 著」は割愛する。