瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(355)

・前田鐵之助 編纂『全日本詩集』2第二卷昭和十四年度1939版(昭和十四年八月十日印刷・昭和十四年八月廿日發行・定 價 壹圓八拾錢・詩洋社(発賣所 上田屋書店)・328頁
 前田鐵之助(1896.4.1~1977.11.18)編纂、詩洋社版『全日本詩集』は昭和13年(1938)から昭和17年(1942)まで4冊刊行されている。前田氏の主宰していた結社「詩洋」を中心に、当時日本の主立った詩人の作を集めたアンソロジーで、それが標題の由来になっている。尤も『全日本詩集』なるアンソロジーは既に昭和4年(1929)に、木村秀吉(1898~1973)編(扉には「東亞學藝協會編」)で刊行されたことがあった。
 83~86頁「笠 豐秋」――本書は作者名50音順に収録しており82頁「思地孝四郎」の次、87~88頁10行め「勝 承夫」の前に収録されているから「笠」の読みは「かさ」なのであろう。思地孝四郎は恩地孝四郎(1891.7.2~1955.6.3)の誤り。また勝承夫(1902.1.29~1981.8.3)は全国の学校の校歌にその名を残しているのだが、笠氏については現在全く知られていないようだ。83頁、まづ字間を広く取ってゴシック体で作者名、その下、やはり少し離して小さく割書「明治三十九年九月廿日英領馬來半島の奥地護謨林に生る/詩洋社同人」とある。詩洋社版『全日本詩集』には4冊全てに詩を寄せており、昭和18年(1943)の「詩洋」20周年を記念した前田鐵之助 編纂『詩洋貳拾周年記念詩集/詩洋詩人選集』にも詩を寄せている。「詩洋」はこの記念詩集刊行に先立って昭和19年(1944)3月に決戦措置法のために終刊号を刊行している。
 笠豊秋については、戦後のことはよく分からない。「官報」號外㈣(昭和二十一年四月一日)の「廣告」の「◉公示催告」に拠ると昭和21年(1946)3月4日に笠氏が「最終名義人」となっている株券の権利の無効が申し立てられ、そして12月3日の期限までに株券の提出等がなかったために12月4日に無効が宣言されたことが「官報」第6142号(昭和22年7月7日)の「判決」の「◉除権判決」に見えている。よって昭和20年前後に死亡したのではないかと思われるばかりである。戦前には「詩洋」以外にも歌誌や詩誌への寄稿が幾つか確認出来る。
 83頁2行め~85頁3行め「雲  水」、85頁4行め~86頁1行め「薄  暮」、86頁2~6行め「き み が 目」、7~14行め「花」の4篇。
 うち「薄暮」は4行の3聯、計12行から成るが、その2聯め(85頁9~12行め)、

薄暮
色増す街燈の暈の呟き、*1
また重い窓掛の外を過ぎゆくもろもろの影の縺れ、
古着屋の店頭に吊るされた赤マントの記憶に――。

とあるのは、或いは赤マント流言を踏まえているのではないか、とも思う。
 3~5頁、前田鐵之助「序」には、5頁10行め「昭和十四年七月廿二日 夜」とある。早速「東京」の「薄暮」を「過ぎ」て行った「赤マントの記憶」を取り上げたのではないか、と思えるのだけれども。(以下続稿)

*1:ルビ「かさ」。