瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(356)

・『新聞活殺劔』第三篇(昭和十四年十一月二十七日印刷・昭和十四年十二月 一 日發行・【定價金壹圓】・精華書房・297頁)
 表紙には朱で銅器の拓本の如き絵、文字は右からの横書きの毛筆楷書で上部の子持枠に「劔殺活聞新生 鱈 愚」中央揃え、恐らく標題と著者名の間にゴシック体で「篇三第」とあると思われるのだけれども、バーコード貼付のため分からなくなっている。下部の子持枠には「著 次正式」とある。
 奥付を見るに著者は「愚鱈生」、發行者兼印刷人「式正次」、印刷所が「新聞之新聞社」で發行所は「精華書房」である。式氏と印刷所・發行所には住所が添えてあるがいづれも「東京市神田區神保町三ノ二三」。
 本文共紙に見える見返し(遊紙)に続いて蘇峰迂人「序」、「昭和十四年十一月二十一日」付。裏には式正次の献辞。
 次いで「題   言」が2頁(頁付なし)。冒頭、1頁め2行め、

 最早七年になると思ふ。毎日、新聞之新聞に今日の話題欄を書き初めてから。早いものだ。‥‥

とある。

 式正次(1894.9.3~1964.12.20)が創刊した新聞業界紙「新聞之新聞」については「一般社団法人 日本印刷産業連合会」ホームページJFPI「印刷用語集」の「新聞之新聞」が最も詳しい。
 本書は、恐らく表紙にあった篇次の記載がバーコードに隠され、他には何処にも篇次の記載が見当たらないのだが、既に同じ表紙を色違いで印刷した2冊が刊行されており、さらに「第四篇」が刊行されているので「第三篇」であることは間違いない。
・『新聞活殺劔』(昭和十一年十月 十 日印刷・昭和十一年十月十五日發行・【定價金一圓】・精華書房・614頁)
・『新聞活殺劔』續 篇(昭和十三年十二月十二日印刷・昭和十三年十二月二十日發行・【定價金壹圓】・精華書房・453+14頁)
 愚鱈生「序文」2頁め(頁付なし)5行め「‥‥昭和十一年七月より昭和十三年六月迄の今日の話題中より撰擇の上、新聞活殺劍續篇として‥‥」
・『新聞活殺劔』第四篇(昭和十六年六月二 十日印刷・昭和十六年六月二十五日發行・【非賣品】・精華書房・192頁)
 式正次「卷頭に題す」3頁め(頁付なし)1行め「新聞之新聞は大正十三年六月一日發刊昭和十六年二月二十八日終刊」。2頁9行め「‥‥新聞活殺劍第三篇は定價を附して販賣したが、‥‥」。發行者兼印刷人が「後藤 金壽」に代わっている。
 なお、国立国会図書館に所蔵されているのは以上4冊で、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来るが、次の Tweet に拠り昭和18年(1943)に第五篇が出ていることを知った。但し第三篇が「発禁」と云うのは間違いではないだろうか。背表紙の写真、標題の下に「篇續」「篇三第」「篇四」そして縦組みで「第五篇」と添え、下部に「〈愚/鱈〉式正次著」とある。


 国立国会図書館サーチで検索するに第五篇(昭和18年8月刊・精華書房・310頁)は横浜市立中央図書館や、幾つかの大学図書館に所蔵されていることも分かった。いづれ見る機会を作りたい。
 それはともかくとして、この第三篇の次の記事に、赤マント流言に触れるところがある。
・285頁8行め「新聞の統制に就て (一)」末尾、287頁9行め「(一四、一〇、一四)」とある。
 287頁10行め「(二)」末尾289頁12行め「(一四、一〇、二五)」。
 289頁13行め「(三)」末尾292頁10行め「(一四、一〇、二六)」。
 292頁11行め「(四)」末尾294頁8行め「(一四、一〇、二七)」。
 294頁9行め「(五)」末尾295頁14行め「(一四、一〇、二六)」。
 うち(三)の290頁11行め~291頁1行めに、

‥‥。日本獨自の新聞統制と云ふのは、その國力に應ずる事を前提としなければならない。新聞は/文化機關であり國民の知識を啓發するのであるから、其内容に附ては、餘り容喙すべきではあるまい。禁止事項/を餘りに多數發する事は結局怪文書の發行となり、反つて社會不安を伴ふ事となるのである。平沼内閣の時に、/赤マントの吸血鬼が盛場に出現したとの流言あり、新聞記事として差止められて居ると云ふので、此の流言は拍/車をかけられた事は記憶に新たな處であらう。故に記事の内容を統制すると云ふ事は、之は餘程考慮を要する問/【290】題である。然し國力に伴ひ資源を節約する意味の質的統制は一日も早く強化決行を要する。‥‥

とある。
 報道統制によって流言に拍車が掛かったと云う見解は、2016年8月2日付(152)に見たサンデー毎日昭和14年3月12日号の阿部眞之助「週間時評/赤裏のマント」や、2013年11月25日付(035)に触れた、中央公論昭和14年4月号掲載の大宅壮一「「赤マント」社會學」の「三」章にも見えていた。具体的な統制内容を指摘したものとしてはこれらより早く昭和14年(1939)2月25日付で書かれた、2018年9月5日付(163)に見た「經濟雜誌ダイヤモンド」第27巻第7号掲載の近藤操「赤マント事件の示唆【旬評】」に「しかし今回の流言沙汰が、新聞紙上に掲載を差止められてゐるといふ一項を必ず附加することによつて、一般的措信力、従つてその伝播力を高めたといふ事実」と見えていた。尤も「都新聞」等は遠慮せず(?)にこの流言を取り上げていたが、「東京朝日新聞」や「讀賣新聞」は全くと云って良いくらい取り上げていない。
 ここで注目すべきは、赤マント流言の時期を平沼騏一郎(1867.九.二十八~1952.8.22)が第35代内閣総理大臣として組閣した「平沼内閣の時に」としていることで、昭和14年(1939)1月5日から8月30日までのこととなる。赤マント流言については一部に昭和13年(1938)説があり、早くは2020年5月14日付(244)に見た同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』昭和15年9月・高山書院)のように妙に具体的に述べたものもあるのだけれども、当時の新聞報道や他の文献の記述に徴して、本当かしらんと思っている。本書もその傍証として挙げて置こう。(以下続稿)