瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(357)

 水島爾保布(1884.12.8~1958.12.30)のことは、次の文庫本で知っているだけだった。

 だから随筆家であったことも知らなかったのだが、昭和6年(1931)2月15日創刊、昭和20年(1945)2月まで322号続いた「大日」という雑誌(大日社)の終刊まで、ほぼ毎号随筆を寄稿していた。
 第九十號(昭和九年 十 月廿八日 印刷納本・昭和九年十一月 一 日 發  行・定 價 金參拾錢・八〇頁)六一~六四頁8行め「原町より」に初めて登場したらしい。以後これが連載となるのだが、第九十一號(昭和九年十一月十三日 印刷納本・昭和九年十一月十五日 發  行・定 價 金參拾錢・八三頁)七一~七三頁11行め、第九十二號(昭和九年十一月廿八日 印刷納本・昭和九年十二月 一 日 發  行・定 價 金參拾錢・七八頁)六九~七一頁は「原町より」であったのが、第九十三號(昭和九年十二月十三日 印刷納本・昭和九年十二月十五日 發  行・定價 金參拾錢・八〇頁)七二~七三頁8行め「巢鴨より」と改題されている。
 七二頁上段1~2行め「賃居を原町から宮下町に移した。本年中こ/れが三度目の引越しである。‥‥」と書き出し、次の段落の冒頭、10行め「今度の賃居は、省線巢鴨驛に近い。‥‥」と改題の由来を説明している。原町は牛込区(現・新宿区)原町、宮下町は小石川区宮下町、現在の文京区千石4丁目の北西部、文京宮下公園の辺りである。
 以後、水島氏は大体「巢鴨より」、たまに「間瀬の濱邊から」や「朝鮮日記」など、旅先からの寄稿もしている。この間に本郷区駒込曙町(現在の文京区本駒込1丁目と2丁目のそれぞれ一部)に移転しているが、省線の最寄駅は巣鴨駅のままだったので「巢鴨より」の題を継続したようである。ただ細かく確認した訳ではないので、巣鴨駅周辺での転居はもっとあったのかも知れない。
 それが、昭和16年(1941)後半から越後からの寄稿が多くなる。最後は越後に疎開して、そのまま移住したようだ。
 その間、「大日」は昭和18年(1943)まで「毎月二回一日十五日發行」だったのが昭和19年(1944)から月刊になっている。
 第三百十八號(昭和十九年九月廿八日納本・昭和九年十月 一 日發行・定 價 金參拾錢・一六頁)一二~一三頁2段め「巢鴨より」が「巢鴨より」の最後で、以後昭和20年に出た2冊に寄稿したのが最後となって「大日」自体も終刊となっている。但し予定された終刊ではなかったようで、この事実上の終刊号については近々別に記事にする予定である。
 水島氏の連載はほぼ最初から最後まで「巢鴨より」の題であったので総称としては『巢鴨より』とするべきであろう。非常に興味深い長期連載で、細かく読んで行けば水島氏の10年分の動静がかなり明らかになるはずで、水島氏の伝記研究の基礎資料となるばかりではなく、時事問題、世態風俗についても研究に資する記述が少なくないようである。
 しかし私にはこの連載全てに目を通す余裕はもとよりないので、今後の篤学の士の研究に期待したい。今はその世態風俗に触れたもののうちで、僅かに赤マント流言を取り上げた箇所を取り上げるばかりである。(以下続稿)