瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

竹中労の前半生(09)

竹中英太郎の軍関係の人脈①
 竹中英太郎は「五日会」に参加していたことが知られているが、年鑑類にもその記述があった。幾つか抜いて置こう。
大阪毎日新聞社東京日日新聞社 共編『昭和八年 毎日年鑑』昭和七年九月十五日 印刷・昭和七年九月二十日 發行・定價 金壹圓(別冊2冊共)・五六〇頁
 一九五頁1・2段め(4段組)5行め~一九七頁4段め18行め「文藝界の一年/日支事變と文學」のうち、一九六頁1段め11行め~4段め8行め「フアツシズムと文壇」の、3段め12行めまでを抜いて置こう。

   フアツシズムと文壇
 九月になると、日支事變が滿洲/問題を契機として、國民の關心を/その一點に集めた。これより先き/フアツシズムの思潮がいつとなし/わが國の國民意識に侵入してゐた/何が日本のフアツシズムであるか/と問はれると、誰一人はつきりと/その問題に答へるものはないが、/フアツショ的な空氣が國民の氣分/を無意識的に刺激したことは爭へ/ない事實だつた。そこで文壇や思/想界では、思想的、文學的に見たフ/アツシズムとは何かゞ、評論や、座/【1段め】談會の重要な課題となつて來たの/である。その中に畫家竹中英太郞/氏が世話役となり若干の大衆作家/や畫家、それに陸軍省の數氏を集/めて五日會なる會合を試みてから/五日會はフアツシヨ文士の集團で/あり、陸軍省の某々氏が非公式に/でも參加した當夜の狀況から推し/ても、五日會の活動の方向は民族/主義、軍國主義、祖國主義等々の熱/情を文學で表現する同志の一群だ/らうと見られるやうになつた。三/上於菟吉、直木三十五白井喬二吉川英治諸氏がその傾向を代表す/るといふのである。その前に三/上氏は愛國主義の評論や、詩を「東/京日日新聞」に寄せて徹底した國/家主義、帝國主義である氏の意思/表示をした。五日會は、何等かの/事情で一回ぎりで後は續かなか/つたが、直木氏はその前にも日米/戰を内容とした作物を「文藝春秋」/に連載するほか率直に氏の日支問/題觀を大膽に公表しつゞけたし、/三上氏もまた作物、評論に、憂國/【2段め】愛國の作家である氏の全貌を語り/つゞけてゐた。つゞいて岩崎純孝/野島辰次氏等によつて「日本フア/ツシヨ聯盟」が結合され、日本フ/アツシズム運動の指導的理論の完/成に手を染めるといふ標語のもと/に「フアツシズム」なる雜誌が發刊/されたが、内容には大した體系も/何もなく、これも一號が出ただけ/に過ぎない。そんなわけでファツ/シズム文學の見本といへるやうな/作物は一つもなかつたが、‥‥

とあって、首謀者ではあるまいが「世話役」視されるくらい積極的に動いていたことが察せられる。より簡要を得た説明としては次の文献を抜いて置こう。
大原社会問題研究所 編纂『日本労働年鑑』第拾參輯(昭和七年十一月二十八日印刷・昭和七年十二月 一 日發行・定 價 金 四 圓・同人社・四+八四五+一二七頁
 七三五~八一五頁「第五部 思想團體及思想運動*1」七九五頁下段3行め~八一五頁「第二篇 反社會主義的運動」七九八頁下段「第二章 國粹團體」の八〇〇頁9行め~八一五頁「國粹團體及反社會主義的團體一覽」の最後、八一五頁4~7行めに、

―滿洲事變を直接的契機として生れた「五日會」は軍部、根本・武藤(參謀本部)各少佐、鈴木・坂田各中佐、石井・山ノ内・/松崎・今村各少佐、林大尉、文壇直木三十五白井喬二三上於菟吉平山蘆江吉川英治久米正雄、土師清二、野村愛/正等、畫壇、竹中英太郞、岩田專太郞等々によつて組織され、目的は、軍部の愛國思想を大衆文學を通じて、國民の間に普/及・昂揚さすにある。

とある(太字にした箇所は明朝体に傍点「・」)。
 発足当時の新聞記事とその後の活動については、HN「神保町のオタ」のブログ「神保町系オタオタ日記」の2017-07-19「久米正雄らが参加したファッショ運動団体五日会と雑誌『恤兵』」に詳しい。「神保町のオタ」が引いている『団体総覧』の記載内容は『日本労働年鑑』の記載内容を箇条書に直したものである。『日本労働年鑑』に拠ったか、同一典拠に拠ったのであろう。(以下続稿)

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追記】「五日会」について、同年の文献を補って置く。
石川龍星『日本愛國運動總覽』昭和七年八月廿日印刷・昭和七年八月廿五日發行・定價六十錢・東京書房・3+4+9+175頁
 87~154頁「第二部 急 進 的 國 家 主 義 團 體」152~154頁「第六章 學藝團體」に3団体挙がるうちの最後、154頁2行め、2行取り7字下げでやや大きく「三、五  日  會」とあって、3~13行め、

 日支事變が勃發するや國民の精神思想は急激に愛國的風潮を辿り、新聞、雜誌等も從來の自由主/義、社会主義的な立場から急激に愛國思想鼓吹に方向轉換を始めた。勿論小說家、文士連も、從來/戀愛物一點張で讀者をつる樣な譯には行かなくなつて來た折、軍部、文壇、畫壇の一部の人々によ/つて國粹文化の普及、愛國心の昂揚、文學運動の國家主義的轉換のため、七年二月五日芝浦雅叙園/に第一回の會合を催したために五日會と稱することになつたが、その効果は忽ちに、それ以後の新/聞雜誌に於ける五日會員の小說はすべて愛國的、軍事的なもので、愛國思想を通俗物から鼓吹する/ことには立派に成功した。
 第一回の會合に出席し、其後幹事格で會の世話をして居たものは陸軍側では參謀本部の根本中佐/武藤少佐 陸軍省調査部の鈴木、坂田中佐、石井、山ノ内、松崎、今村の各少佐 林大尉等で文壇/からは直木三十五三上於菟吉久米正雄、土師清二、白井喬二吉川英治、野村愛正、鈴木氏享/佐藤八郞の諸氏、畫壇では岩田專太郞、竹中英太郞の諸氏である。


・座間勝平『日本フアッシヨ運動の展望』昭和七年十一月 十 日印刷・昭和七年十一月十七日發行・定價金壹圓貳拾錢・日東書院・3+7+305頁
 62~160頁「第三章 フアツシヨ陣營の展望」141~146頁8行め「七 文化的國家主義團體」の最後、145頁9行め~146頁8行め、

 五 五日會 最近に至つては、文藝方面に於ても、フアッシヨ文藝運動の擡頭を/見るに至り、直木三十五、三上於兎吉の諸氏は、大童になつてその宣傳に努めてゐ/るが、彼等は最近、陸軍の將校連と手を握つて、遂に五日會なるものを作つた。そ/のメンバーを見ると、【145】
 文壇側からは直木三十五、三上於兎吉、久米正雄白井喬二平山蘆江、吉川/英治、鈴木氏享、土師清二の諸氏、
 畫壇からは
  岩田專太郞、竹中英太郞
 軍部を代表して、
  根本中佐、武藤少佐、鈴木、坂田兩中佐等が名前を連ぬてゐる。
 フアツシヨ文學がプロレタリアー文學に對して、何處まで對抗し得るか、また/今後いかなる發展を見せるか、一寸面白い事ではある。


 なお次の、161~186頁「第三章 フアツシヨ諸團體の政策」も第三章で、最後は第四章、目次でも第三章がダブっている。

・木村與作『ピストル旋風時代』昭和七年十二月 十 日印 刷・昭和七年十二月十四日發 行・特價金壹圓六拾錢・明治圖書出版協會・690頁
537~613頁「國家主義團體大觀」の序説に当たる文章に続いて、2番めに紹介されている。539頁9行め、2行取りでやや大きく「五   日   會」とあって、10行め~540頁2行め、2字下げで、

 事務所 特定の事務所なし △創立 昭和七年二月五日
 中心人物 陸軍側――參謀本部根本中佐、武藤少佐 陸軍省鈴木中佐、坂田中佐、石井少佐/山ノ内少佐、松崎少佐、今村少佐 △文士側――直木三十五三上於菟吉久米正雄、土師清二/白井喬二鈴木氏亨、佐藤八郞、野村愛正、吉川英治 △畫家側――岩田專太郞、竹中英太郞
 申し合せ 文學の國家主義的運動に努力し、愛國心の昂揚、國粹文化の普及に努める。


 一昨日見たように竹中英太郎昭和7年(1932)3月から6月まで朝鮮、そして建国されたばかりの満洲国に出掛けている。五日会が続かなかった「何らかの事情」とは、実務を担っていた「世話役」竹中英太郎の不在なのかも知れない。その後五日会は9月に創刊される陸軍恤兵部の慰問雑誌「恤兵」の編纂を行っているのだが、或いは、帰国した竹中英太郎がこれに関与しているかも知れない、と想像してみるのだが、どうだろう。――そのうち「恤兵」創刊号を発見・紹介した押田信子の著述を見てみることとしよう。

*1:目次のある扉は頁付なしでカウントされていない。