瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(07)

 これまで、近年の赤堀氏に関する論文・言及を取り上げて来なかった。ここまで手を拡げるつもりではなかったからである。
 しかし、ここまで来るとそれらも押さえて置くべきであろう。――例えば、赤堀氏と東洋大学の関係に気付いたところで、次の論文の存在に気が付いた。
・村嶋英治「最初のタイ留学日本人織田得能(生田得能)と近代化途上のタイ仏教」(「アジア太平洋討究」第41号1~87頁・2021年3月25日発行・早稻田大學アジア太平洋研究センター・274頁)
 村嶋英治(1951.5.3生)は当時早稲田大学アジア太平洋研究科教授で現在は名誉教授。
 私も院生時代に使ったことのある『織田佛教大辭典』で知られる織田得能(1860.十.三~1911.8.18)を取り上げたこの論文で、まづ3頁25行め~4頁4行め、

 得能は,1887年9月16日に井上圓了(1858‒1919)が哲学館(1906年東洋大学と改称)を開学/すると同時に井上に請われて同館の講師 ³ に就任した。担当科目は仏学(仏教史)⁴ であった。得能は/この後も,1891~95年,1897年,1899~1901年7月,1903年にも哲学館講師を委嘱され,印度学,/【3】印度哲学を講じた(『東洋大学人名録,役員・教職員 戦前編』東洋大学井上円了記念学術センター,/1996年,35頁)。同じく哲学館講師として三宅雄二郎は1887年9月~1900年の間,哲学,哲学史/を担当し,赤堀又次郎(1866‒1943?)は,1900年9月~1905年の間,国語を担当した(同上 9,/127頁)。得能は講師仲間の三宅や赤堀と親しく交際した。

と赤堀氏に触れている(脚註3、4は省略)。
 赤堀氏は明治31年(1898)から明治33年(1900)まで、井上哲次郎(1855.十二.二十五~1944.12.7)学長の東京帝国大学文科大学で講師を務めていたが、次いで明治33年から明治38年(1905)9月まで井上圓了(1858.二.四~1919.6.6)館主(学長)の、現在の東洋大学の前身哲学館(大学)の講師を務めている。前回問題にした大正期の『東洋大学一覧』に見える住所「市谷田町二丁目一番地」は、実はこのときのものではないかと疑っている。
 井上哲次郎の日記『巽軒日記』は部分的に翻刻されている。赤堀氏が文科大学講師を退任した明治33年(1900)を見るに、まづ1月「三十日、鷲尾源次郎、赤堀又次郎、山路栄吉、竹内楠三来訪す、」と見え、退任後の11月「十日、赤堀又次郎来訪す、」3日後の「十三日、赤堀又次郎来訪す、」とある(東京大学史史料室 編集・発行『巽軒日記 ― 自明治三三年至明治三九年 ― 』二〇一二年三月発行・一二八頁)。
 それ以前にも、井上氏がドイツ留学から帰国した明治23年(1890)11月「○廿六日、深沢伊三郎赤堀又次郎中島力造元良由次郎来訪*1、哲学会ニテ性善悪論ヲ講ズ、」と見えていた(東京大学史料に関する委員会 編集「東京大学史紀要」第12号(1994年3月・152頁)1~35頁、福井純子「資料 井上哲次郎日記 一八九〇―九二『懐中雑記』第二冊」)。
 この辺りに登場する人名は、後に栄達して帝国大学教授となった者もあれば、断片的にしか経歴が辿れない者もあるので、纏めて後日の課題としたい。
 村嶋氏の論文に戻って、赤堀氏を取り上げている節を見て置こう。73頁3行め「13.2 友人赤堀又次郎の見た帰国後の得能」の節で75頁21行めまで。冒頭(73頁4~5行め)を抜いて置こう。

 哲学館の同僚講師として,得能と親交があった,国文学や日本史の隠れた大家赤堀又次郎は,得能/の帰国から仏教大辞典執筆に至るまでを次のように書いている。

として以下前後1行空け2字下げで赤堀氏の文を、[ ]に註や補足を書き入れつつ引用している。末尾(74頁27行め)に「(赤堀又次郎「織田得能師と遺著仏教大辞典」『新愛知』1930年10月20日朝刊)。」とある。
 そして内容についての疑問箇所を1点指摘した上で、赤堀氏について以下のように述べている。

 赤堀又次郎(1866‒1943?)の経歴は,不明部分も少なくないが,最も詳しいものは,赤堀又次郎/『読史随筆』(書誌書目シリーズ,97. 書物通の書物随筆/宮里立士,佐藤哲彦編集・解題;第1巻,ゆ/まに書房,2011年8月)に付された,佐藤哲彦の解題である。
 赤堀には,『佛教史論』(冨山房,1923年1月),『社寺の経営』(武蔵野書院,1926年1月)とい/う仏教に関係した二著があるが,上記佐藤の解題では,赤堀と仏教の関係については全く触れていな/い。
『文芸年鑑 昭和十二年版』270頁の「赤堀又次郎」の項は,慶應二年(1866 年)生,愛知県出身,/【74】明治21年東大国史卒,元東大講師と記されている。正しくは彼が卒業したのは,東大国史ではなく,/東京大学文学部付属古典講習科である。東京大学文学部付属古典講習科は,明治15年5月30日に/設立され,国書課,漢書課の二部門がおかれた。両者とも2回募集しただけで,明治21年に廃止さ/れた(東京帝国大学東京帝国大学五十年史 上巻』1932年11月,721‒747頁)。
 赤堀又次郎は文学部付属古典講習科国書課の2期生(明治17‒21年在学)として入学し,明治21/年に卒業した。但し,古典講習課は選科の扱いであったようで,学士号は与えられなかった。それ故,/『東京帝国大学卒業生氏名録』には,古典講習課卒業生の名は記載されていない。赤堀は「たしか,/神官教院でしたか,伊勢の方の学校で,修学して来た人ですから,もう入学した時から相当国学に通/じていた」(和田英松「古典講習科時代」『国語と国文学』11巻8号,1934年8月,38頁)。成績優/秀であった赤堀は,卒業後直ちに,文科大学雇として採用されたようで,『国語学書目解題』の編纂/に従事した。同書は1902年に刊行された。
 赤堀は「気むずかしい人だ」(伊藤正雄『新版忘れ得ぬ国文学者たち』右文書院,2001年,39頁)/と評され,赤堀の『読史随筆』の解題を書いた佐藤哲彦も「赤堀は,才幹に溢れ,その見識を徳富蘇/峰や三田村鳶魚からも賞讃されている(『紙魚の跡』序文)割には,不遇の感が強い。それは前述の/伊藤著に見える,狷介で自尊の風が横溢した性格が災いしたからだろうか」と述べている。


 さて、この「赤堀又次郎伝記考証」だけれども、先月別の調べ物をしていて逢着した資料だけをさらっと紹介して、もっと早く切り上げるつもりだった。しかし赤堀氏と云えば『三田村鳶魚日記』に出て来たはずだと思って、うっかり『御即位及大嘗祭著作権侵害事件なぞに気付いてしまい、そうすると以前はそれ以上進むのに根気が要って、少し興味を持ってもそれ以上進展せずに忘れてしまったところが、国立国会図書館デジタルコレクションの刷新により幾らでも調べが進んでしまうので、ついでに色々確認して置こうと思って結果色々書き過ぎているうちに長くなって、当初書こうと思っていたことについてはまだ何ともしていない。
 そんな訳で、当然見るべき文献も見ていない。――『書物通の書物随筆』に赤堀氏の著書が2冊復刻されていること、そしてその解題に赤堀氏の伝記について記述があるらしいことにも、「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」により気付いてはいた。コロナ以前であれば、公立図書館に殆ど所蔵されていないゆまに書房の書誌書目シリーズは月1回通っていた母校の大学図書館で借りて来たのだけれども、コロナ以来出入り出来なくなって、まだ見ていない。いや、元々私が赤堀氏について書こうと思ったのは、赤堀氏の伝記で不明とされていた点をほぼ明らかに出来たと思ったからで、『書物通の書物随筆』の解題ではそこは曖昧なままであることが察せられたので、まぁこの際、見ずに書いてしまおうと思って始めたのだった。しかし、やはり見ないといけない。
 それから、東大関係の文献をもっと見ないといけないと思っていたのだが、古典講修科については村嶋氏の論文の記述で解決した。――犬山壮年会の人たちは、まだ大学に馴染みのない時代のこと故、本科と選科の違いを意識せず、帝国大学を正規に「卒業」したものと捉えたのだろう。
 そしてやはり前回問題にした明治17年(1884)の『御会始歌集』で赤堀氏の居所が「久居」となっていることも、赤堀氏が明治17年の上京前、伊勢の神宮教院で学んでいたことと関係あるかも知れない。但し同じ伊勢(三重県)でも一志郡久居と度会郡宇治ではかなり距離がある。いや、神宮教院のこともまだ良く分からない。とにかく、伊勢から上京して来たので『東京帝国大学一覧』では出身地が「三重」となっていたのであろうか。しかし「国語と国文学」も、国立国会図書館デジタルコレクションでは館内限定公開で、これも母校の大学図書館では開架に並んでいたので特に見に行こうなどと以前は思わなかったのだが、ちょっとどうにかしないといけない。
 伊藤正雄『忘れ得ぬ国文学者たち』は母校の大学図書館で除籍になった初版を学部生か修士の院生時代にもらって、以来、院生室の机辺に備えて折に触れて手にしていたのだが、自宅に持って来てから死蔵している。久し振りにこれも掘り出して、読み返さないといけない。(以下続稿)

*1:「由」の左傍に「〻」を打って右傍に「勇」と訂正。