瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(13)

・赤堀秀雅①
 さて、赤堀氏の家族であるが、昨日まで引用した反町茂雄『一古書肆の思い出』には「奥さん」しか登場しない。従って、市谷加賀町及び早稲田南町の古家で赤堀氏は老妻と2人で侘住いをしており、赤堀氏が病歿した後は未亡人が独居していて戦災に遭ったかのように読める。少なくとも、反町氏はそのイメージで書いているように思われる。
 しかしながら、赤堀氏には息子がいて、反町氏が赤堀家に通っていた頃、実は同居していたのである。
 これも、国立国会図書館デジタルコレクションの刷新により手懸りを得易くなった。
日本古書通信社編輯部 編『日本蒐書家名簿』昭和十三年版(昭和十三年六月二十五日印刷・昭和十三年六月二十九日發行・定價三圓五十錢・日本古書通信社・一+二+一八三頁)
 「序」一頁に「八」項目の凡例、4~10行めの2項を抜いて置こう。

二、本名簿は日本古書通信社が每月二囘發行してゐる「日本古書通信」及びその/ 傍ら昭和十年以來前後拾貳囘に亘つて發行して來た「全國古本屋聯合綜合古本/ 販賣目錄」との兩誌に挿入配布した「芳名カード」の返信を中心として、それ/ に本誌讀者の御推薦に依る方、その他適當と思はれる方を加へて編纂した。
三、「返信」を中心とした爲「日本古書通信」の讀者でも蒐集種目の返信の頂け/ なかつた方は掲載漏になつてゐる。「讀者カード」と「返信カード」が別個の/爲と御諒承願ひ度い。


 次いで「目 次」二頁、配列はまづ一頁2行め~五八頁「東  京  府」、一頁3行め~五三頁13行め「東 京 市(市内郵便區域の市外を含む)」五三頁14行め~五四頁12行め「東  京  府(市内郵便區域以外)」五四頁13行め~五八頁「追加東京市」の3つに分けられているが、府下の17人が検出し易くなっているだけで、正直余り意味があるようには思えない。「序」12~13行め「五」項めによれば「姓の/五十音順」である。
 それはともかくとして、以下北から南へ、青森縣から沖繩縣、臺灣まで並べ、そして北海道、樺太、朝鮮、滿洲・中華民國の順になっている。
 その本文、二頁3行めに「赤 堀 秀 雅 牛込區早稻田南町四     〈經濟關係のもの、歴史、/自然科學の隨筆    〉」とある。同じ住所で、同姓である。まづ家族としか思えない。
 そこで「赤堀秀雅」で検索して見るに、中学以降の学歴が判明する。
・「官報」第二千五百九十二號(大正十年三月二十六日  土曜日・六四一~六七二+號外1+附録三二頁)
 六四九頁下段17行~六五五頁中段22行め「彙 報」六五二頁上段45行め~六五四頁下段36行め「◯ 學 事」の六五三頁上段28行めに「第二高等學校ニ於テ同日大學豫科ヲ卒業セシ者左ノ如シ」として、29行め~下段23行めまで、3段組をさらに3段ずつに分けて9段に卒業生を列挙した中の4段め19行め「英文科」とあって10人列挙、うち9人めに「東京   赤堀 秀雅」とある。大正10年(1921)3月に仙台の第二高等学校を卒業している。
・第二高等學校 編纂『第二高等學校一覽』第二高等學校
・〈自大正六年/至大正七年〉大正六年十一月二十四日印刷・大正六年十一月二十七日發行・二八七頁
 一四〇~一七〇頁「◯第七章 生徒   大正六年十月調」は一四〇頁2行め「第一部第三年甲組(英法文科)   四十二人」二始まるが、3行め「(出身中學)(氏   名)(原籍)」とある。
 一四六頁3行め~一四七頁12行め「第一部第一年甲組(英法文科)   四十五人」の一四七頁上段11行め「東京第四  赤 堀 秀 雅 東 京」とあるから、東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)の卒業生で大正6年(1917)9月入学である。当時の府立四中は牛込区市谷加賀町一丁目一番地、現在の新宿区市谷加賀町1丁目3番1号、跡地は新宿区立牛込第三中学校になっている。3月24日付(03)に見た、牛込区市谷加賀町二丁目の赤堀家の所在地の、どれをとっても100mほどの距離である。
・〈自大正七年/至大正八年〉大正七年十一月十二日印刷・大正七年十一月十五日發行・二九五頁
 一四〇~一七一頁「◯第七章 生徒   大正七年十月調」一四二頁14行め~一四四頁8行め「第一部第二年甲組(英法文科)   四十三人」の一四四頁上段6行め「東京第四  赤 堀 秀 雅 東 京」とある。
・〈自大正八年/至大正九年大正八年十一月廿八日印刷・大正八年十一月三十日發行・二九九頁
 一四一~一七二頁「◯第七章 生   徒    大正八年十月調」一四四頁2行め~一四五頁13行め「第一部第二年甲組(英法文科)    五 十 人」の一四五頁下段11行め「東京第四  赤 堀 秀 雅 東 京」とある。理由は分からないが留年している。
・〈自大正九年/至大正十年〉大正九年十二月五日印刷・大正九年十二月七日發行・三一二頁
 一四八~一七九頁「◯第七章 生   徒    大正九年十月調」一四八頁3行め~一四九頁13行め「第一部第三年甲組(英法文科)    四十五人」の一四九頁上段12行め「東京第四  赤 堀 秀 雅 東 京」とある。
・〈自 大 正 十 年/至大正十一年〉大正十年八月二十五日印刷・大正十年八月二十八日發行・三〇九頁
 一七二~二八八頁「◯第八章 卒 業 生 氏 名  (大正十年五月末調)」二八二頁2行め~二八八頁4行め「大正十年  二百五十名」の二八三頁13行め~二八四頁1行め「第 一 部  英 文 科」10名の9人め、二八三頁16行め下段に「京經  赤 堀 秀 雅 東 京」とある。ちなみに10人の進学先は東文2人、京法2人、東經4人、京經2人で、ちなみに第一部(法文科)は他の科を見ても1人進学しないらしい「×」がいる他は全て東京帝国大学京都帝国大学、東大の方が多い。赤堀秀雅は「京」都帝國大學「經」濟學部に進学している。
 赤堀秀雅の名はこれ以後の『第二高等学校一覧』にも見えているが、記載内容が増加することはないので省略して良かろう。
 そうすると今度は『京都帝國大學一覽』を見る必要が生じるが、長くなったので明日に回すこととしたい。(以下続稿)